投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 9月 9日(水)13時39分0秒     通報
>誰を、何を中心にと思われての団結だと思いますか?<

池田門下を名乗るのであれば、「池田先生」を中心に団結していくことが至極当然の話です。現在、池田先生は、創価学会の指揮を執られているわけではないので、正確に言うと「池田先生の指導」を中心に団結していくことが池田門下と言えます。その上で、組織論における団結は、ミクロ的観点でいうと、現場の中心者(ブロック長なら地区部長、地区部長なら支部長等)であり、マクロ的観点だと、実質的に指揮を執っている創価学会会長となります。

池田先生の指導に反しないことがすべての立脚点であり、そこを外して、組織の機構上における団結は意味をなさないどころが害にすらなりえます。たとえば、官僚主義や権威主義がまかり通っている組織は、先生の指導に反していますので、それに同調することは悪しき団結であり、広宣流布の妨げとなります。先生はそういった内部の悪とは戦えと指導されていますが、団結にも良し悪しがあるということです。つくべき人を間違えると不幸になるのはそのためであり、創価学会が真に団結できる組織であり続けるには、不断の努力と戦いが必要なのです。

傲慢な幹部が横行し、組織が官僚化してくると、和合することができなくなる。傲慢な幹部とは、一方的で話を聴かない人間であり、こういう人間は池田先生の指導すら利用します。本来、幹部の役割は、皆が和合できるように気を配り、かゆいところに手が届く存在でなければなりません。人間主義、民主主義の組織にしようとしているのか、それとも「組織の方針に従えばいい」という官僚的な組織をつくりたいのか。後者は権力の魔性であり、広宣流布の団結そのものを壊してしまう一念です。

9月6日付けの聖教新聞での先生のメッセージに、「どんな差異も乗り越えて、何ものにも攪乱されず、賢く大きく団結する」とありますが、多様性の時代であり、考え方も違っていて当たり前を前提とし、それでも皆が和合できる組織をつくっていかなくてはなりません。懸念や反対の声に耳を傾けないような姿勢では話にならず、中心者がそのレベルでは団結しようにもできない。そういう前日本的な、度量のない幹部があふれておりますが、それでも賢く団結できる方途を探していかなくてはならないのも事実です。

組織上は、会長を中心に団結していきますが、それは会長が先生の指導通りであることが不可欠です。それでこそ団結の意味があるのです。会長といっても同じ池田門下どうしであり、指導者ではありません。だから、間違ったことをしているのであれば指摘していかなくてはならないのです。悪い幹部というのは、団結という名の同調を求めているだけであり、根底にあるのは「支配」です。これはもはや仏法の世界ではないのです。

会員が大きく団結できるように、「個々人の一念」、「中心者の一念」、「創価学会のシステム面」の三つをみていく必要があります。団結を個人の責任のみに押し付けるのは官僚的であり、無慈悲です。教義変更や安保法制等の、意見が分かれるような問題に関して、組織にどれだけの裁量があり、余裕があるか。間違っても反対者に対して圧力をかけたり、ましてや仏敵扱いするようなことがあってはならない。ただの意見の相違であり、魔でもなんでもない。団結には、自由に話し合える雰囲気は絶対条件であり、いよいよ学会もそういった当たり前のことが行えるように、変わる時が来たといったところでしょう。