投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 8日(火)23時31分46秒     通報
■ ガン「再発」の恐怖に打ち勝って

遠藤: 先ほど、富山の佐藤さんの体験が紹介されました(本文 p192)が、「死を見つめる」といっても、口で言うほど簡単ではないと、つくづく思います。佐藤さんは学会の中で生き抜いてきたから、あれほど強く生きられたのでしょう。

斉藤: 「ガン」と宣告された時の苦悩、動揺は、本人にしかわからないといいます。学会員でも多くの人がガンと闘い、克服した体験をもっていますが、やはり家族や同志の励ましが大きな支えとなったようです。

名誉会長: 励ましが大事だ。励ましが、どれほど大きな力となるか。いざ自分の死と向き合って平然としていられる人はいないでしょう。だれだって死は不安です。死ぬことは怖い。それが普通であり、当然です。
「自分は死ぬことがこわくない」なんて、ほとんどが虚勢にすぎないと言える。しかし、不安におののいているだけでは、病魔・死魔には勝てない。それをどうすれば乗り越えていけるのか。信心しかない。
しかし唱題しようと思っても、不安が先に立ってしまう。そういう時に、ともに祈ってくれる人がいる。真心から励ましてくれる同志がいる。それだけで心が軽くなる。勇気が湧いてくるものです。

遠藤: 本当にそうですね。ガンの患者にとって、一番の不安は再発です。最初のガンの宣告以上に、再発の宣告はショックのようです。
「聖教新聞」に紹介された札幌・豊平区の松浦好信さんは、肝臓ガンで手術を受け、わずか四ヵ月で再発しました。
この時、ショックのあまり、呆然としてしまったそうです。
闘病生活が始まっても、唱題する気力すら涌かなかった。“もう治るわけがない”という悲観的な気持ちが強くなっていく。そんな松浦さんの心を揺り動かしたのが、先輩の「そんなにゆっくり休んでいたら、ガンも居心が良くて、いつまでも体内にいるよ。広布のために戦って、ガンを追い出そう」との言葉でした。
自分に負けていたと気がついた。臆病だった自分、“治らない”と決めてしまっていた弱い自分 —- 。結局、自分に勝つことが病魔に勝つことだ、と。それからは、生まれ変わったように広布の活動に励んだそうです。

名誉会長: 見事な勝利の姿だ。病魔と闘おうと立ち上がったこと自体が、自分に勝った姿です。

遠藤: 一遍の題目を唱えるごとに、「ガン細胞を追い出すんだ!」との気迫でした。弘教でも新聞啓蒙でも、その気迫で戦った。一日一日を真剣勝負の思いで戦い、見事にガンを克服したそうです。
■ 「一日の命」は全宇宙の財宝より貴い

名誉会長: ひとたび死の淵を覗いた人にとって、一日一日がどれほど価値あるものか、どれほど尊いものか —- 。死と向き合うことを避けている人は、その尊さがわからない。
日蓮大聖人は「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(御書 p986)と仰せです。一日の命は、宇宙の財宝を集めたよりも貴いのです。
だから一日一日を無駄にしてはいけない。仏典にも、こうある。「ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。だれか明日の死のあることを知ろうや」と。

斉藤: “臨終只今にあり”ですね。

名誉会長: 人生は無常迅速です。大聖人の仰せをかみしめたい。
「生涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり、只先世の業因に任せて営むべし世間の無常をさとらん事は眼に遮り耳にみてり、雲とやなり雨とやなりけん昔の人は只名をのみきく、露とや消え煙とや登りけん今の友も又みえず、我れいつまでか三笠の雲と思ふべき春の花の風に随ひ秋の紅葉の時雨に染まる、是れ皆ながらへぬ世の中のためしなれば法華経には『世皆牢固ならざること水沫泡焔の如し』とすすめたり」(御書 p466)
—- 人の生涯は、どれほどもない。思えば、この世は、一夜の仮の宿のようなものであり、それを忘れて、どれほどの名声や利益を得ようというのか。また得たとしても、夢の中の栄華であり、珍しくもない楽しみである。ただ前世の業因に任せて(今世の自分の境遇で)、努力すればよいのだ。
世間の無常を知る実例は、目をさえぎらんばかりに多く、耳にもあふれんばかりである。昔の人は、雲となったか、雨となったか、ただ名を聞くばかり。今の友も露と消え、煙となって空に昇ってしまったのであろうか、姿が見えない。自分だけが、三笠の山にかかる雲のように、いつまでも、この世にあると思っていられようか。
春の花が風とともに散り、秋の紅葉が時雨に染まる。これらは皆、この世の無常を示しているではないか。
ゆえに法華経(随喜功徳品)には「世の無常であることは、水の泡や、火の炎のようである」と説かれている —-

斉藤: 「泡」のごとき「天界」にとらわれてはならないとの御聖訓ですね。

名誉会長: また、こう仰せだ。
「寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは『現世安穏・後生善処』の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(御書 p467)
—- 「寂光の都」以外は、どこも皆、苦しみの世界である。(永遠の生命を自覚した)真実の覚りの住みかを離れて、何が楽しみといえようか。「現世は安穏であり、後には善処に生まれる」という妙法を持つことだけが、今生には真の名誉となり、後生には成仏へと導いてくれるのである。
願わくは、どこまでも一心に、南無妙法蓮華経と自分も唱え、人にも勧めていきなさい。まさにそれこそが、人間界に生まれてきた今生の思い出となるのである —- 。