投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 8日(火)07時02分0秒     通報
■ 仏教誕生の“第一歩”

名誉会長: ともあれ、欲望とか、快楽といっても一様ではない。ゆえに、それらが満たされた境涯もまた多様です。こうは言えないだろうか。自分なりの目標をもって生きて、それを達成した喜びの境地が「天界」であると。
例えば、子どもがテストで一番の成績を目指すのも一つの目標です。あるいは、苦手の鉄棒を克服しようと頑張る子もいるでしょう。
オーケストラの演奏家が音楽的感性や技術を磨きに磨いて、見事なハーモニーを奏で、高度の芸術性を獲得できたとすれば、これも天界の境地を得ることになる。

斉藤: それぞれ次元は違うにしても、ある意味での自己実現していると言えますね。

須田: 何らかの目標をもって生きるということ自体、人間らしい境涯といえるます。

遠藤: 前回、修羅界は「他人に勝つ」ことを目指し、人界以上は「自分に勝つ」ことを目指しているという話がありました。天界は「自分に勝つ」努力の結果と言えます。自分の目標に到達して心が満たされた境涯ですから、人界よりも更に生命空間が広がっています。それでもまだ六道を超えてはいないのですね。

名誉会長: 話を整理してみよう。釈尊当時、多くの人々の理想は「天」の境涯であった。なかんずく「欲界」の満足だったでしょう。

斉藤: そのために、伝統のバラモン教でも、さまざまな「祈祷」が行われました。

名誉会長: もともと釈尊の王宮での生活は世俗的欲望という点では、庶民から見れば「天界」のような生活でしょう。しかし城の各門に「老い」に苦しむ人を見、「病」に苦しむ人を見、そして「死者」の姿を見た。「生老病死」という人生の実相の前に、欲望のむなしさを知った。「無常」を見たのです。
そこで“天界(欲天)”的な境涯を捨てて出家した。当時、世俗的な欲望を超えて、さらに高い境地を目指した新思想家がいた。六師外道です。出家した釈尊も、そのうちの二人に弟子入りしたという。しかし、それらは所詮、生死の苦しみを解決するものではないと見破った。

遠藤: 「欲天」でもダメだった。更に上の「色天」「無色天」でもダメだった —- 。

名誉会長: では「一体、人間にとって何が本当の幸福なのか?」。
この探求が、偉大なる仏陀を生んだのです。

須田: そうしますと、仏法の誕生そのもの、「天界」から「二乗」へのステップだったということですね。

名誉会長: そう。六道から四聖へのステップだった。

遠藤: その第一歩は、釈尊の実例の通り、「無常」を観じるということでしょうか。
大聖人は「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無かからんや」(御書 p241)と仰せです。

名誉会長: 釈尊がそうだったように、「死」を見つめることが、「永遠なるもの」を求める第一歩でしょう。今は“欲望追求の文明”です。「天界(欲天)」に執着している。たとえば、人は今、生活を、どんどん楽にするにが当然と思っている。「安楽な暮らし」ができないとしたら、それは「したくてもできない」からだと。
しかし、安楽な暮らしよりも、あえて別の生き方を求めた文明もあった。たとえばオルダス・ハクスレー(作家・文明批評家)は、こう書いている。
「おどろくのは、われわれの祖先が耐えてきた苦痛のおおかたが自由意志によることである  —- 過去三、四千年にわたって、人間は望みさえすれはいつであれ、ソファや安楽椅子をつくり、浴室、セントラル・ヒーティング、水洗便所を設備できたはずである。事実、人間がこうしたらくな暮しをたのしんだ時代もあった。
キリスト生誕をさかのぼること二千年の昔、クノッソス宮殿に住む人びとは水洗便所を使い慣れていた。ローマ人は、これもキリスト生誕以前に、複雑な蒸気暖房のしかけを発明していたし、ローマ人のしゃれた別荘の入浴設備は、現代人の夢も遠く及ばぬほどにぜいたくでゆきとどいたものだった —- 中世や近代初期の人びとが不潔で苦しい暮しをしたのは、その時代の暮しかたを変えるに能力に欠けていたからではない。そのように暮すのをえらんだからであり、不潔さや苦しさが彼らの政治的、道徳的、宗教的信念と偏見にかなっていたからである」(横山貞子訳、人文書院)
「なにかを無償で手に入れられるためしはない。らくな暮しをかち得たにあたっては、その代償として、らくな暮しとおなじくらい、いや、もしかするとさらに大切なものを失っている」(同)
「現代の世界はらくな暮しそのものを目的とし、絶対的善としているように見うけられる。いつの日か、地球は一箇の巨大なふわふわのベッドと化し、人間の体がその上でまどろみ、精神のほうはその下で、デズデモーナのように窒息して横たわっていることになるかもしれない」(横山貞子訳、前掲書)
〈「デズデモーナ」は、シェークスピアの『オセロ』で、嫉妬に狂った夫のオセロに絞め殺された女性〉

斉藤: ハクスレーの夫人が池田先生の行動を高く評価していたことを覚えています。

須田:「らくな暮し」 —- 天界を求めるだけでは「精神」は死んでしまうという指摘ですね。