投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 7日(月)17時44分19秒     通報
■ 「有」と見るか「空」と見るか

名誉会長: 二乗は、到達したそういう境涯をも絶対視しないのです。とらわれない。
無色界が自分の境地を究極のものと思っているのに対し、二乗は、成仏へと更に進むための“途中”ととらえている。とらわれない。縛られない。「空」と見る。すべてを縁起(縁によって起る)と見る。

須田: ものごとを縁起的に見るというのは、どんなものでも、ある因とある縁が結び合って成り立っている、「すべては互いに依り合って存在している」と見ることですね。

斉藤: そこにまた新たな因と縁が加われば、すぐに変化してしまう。ですから、どんなものでも、因と縁が仮に和合して成り立っていると見る。いわゆる因縁仮和合です。

名誉会長: 人間もそうです。自分といっても、仮に、こういう姿をとっているに過ぎない。だれも変化を免れない。健康な人でもいつかは病み、死んでいく。うら若き乙女も、あっという間に、孫をあやすようになる(笑い)。
「自分とは何か」 —- そう考えても、十年前の自分と今の自分は違う。変わらぬ自分というものはないのです。
ゆえに、自分への執着(我執)を離れよ、と説いたのが仏教です。

須田: いわゆる「無我説」ですね。

名誉会長: 「無我」とは、自我がないという意味ではない。永遠に変わらない固定的な自分というものはないという意味です。変化、変化です。それが、自己を「空」として見ることになる。

斉藤: ところが、変わらぬ自分があるかのように思い込んで執着したり、自分の所有しているものに執着してしまのが凡夫です。つまり、あらゆるものを「有」と見る —- これが六道の境涯ですね。

名誉会長: 財産にしても、地位にしても、名声にしてもそうだ。これほどはかないものはない。それこそバブル(泡)のようなものです。しかし、それにとらわれ、いつまでもそれらが自分のものであり、永遠に続くかのように錯覚して生きているのが、六道の衆生です。
要するに、一切諸法を六道は「有」と見る。二乗は「空」と見る(空諦)。菩薩は「仮」と見る(仮諦)。仏は「中」と見る(中諦)。これについては、また勉強する機会があるでしょう。

遠藤: 六道が「有」と見るというのは、野球を例にとってみると、若いころ豪速球を売り物にしたピッチャーが、年齢とともに力が衰えてくる。
しかし「自分は速球派だ」という過去の自分へのこだわりが捨てられず、年をとってからも速球を勝負球にして結局、打たれてしまう。そういうことがよくあります。

名誉会長: 会社を退職したあとまで、どうしても「部長意識」が抜けなかったり、「一流企業の社員」意識が抜けなくて、周りがもて余している人もる。
会社人間から会社を取ったら、あとは貧しい自分しか残っていないことも珍しくない。そういう自分を見つめられず、新しい人生へと出発できなくて失敗する人も多いのです。
自分のことだけではない。他人をも固定的に見てしまう「くせ」が人間にはある。相手はどんどん成長しているのに、いつまでも過去のその人の姿にとらわれるということもある。そういう固定化を打破したのが二乗の —- すなわち仏法の「空」の智慧です。
この世に無常でないものは何ひとつなと見て、だからこそ前へ前へ、永遠に前進し、向上していくのが、真の二乗です。

斉藤: そうしますと、二乗が、自らの到達した境涯を絶対化し、安住してしまえば、もはや二乗とはいえないということになりますね。

名誉会長: そう。六道です。無色界の衆生は、天界の頂上である「有頂天」に立ったと思ったとたんに、そこから堕ちていく。それと同じです。

遠藤: やはり人間、「有頂天」になってはいけない(爆笑)。

須田: 大聖人は「開目抄」で「上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし」(御書 p187)と仰せです。
〈(いわゆる善きが外道といわれた者は)上は色界・無色界をきわめ、上界を悟りの世界と立てて、尺取り虫のごとく、一歩一歩修行してのぼったけれども、非想天(無色界の最高位)から、かえって三悪道に堕ちてしまい、一人として天界に留まる者はなかった〉

名誉会長: 彼らは一生懸命に苦行して、一歩ずつ昇っていったのに、最後は、まっさかさまに転落してしまう。それはなぜなのか。いろんな観点があるが、やさしく言えば、苦行によって得た境涯には「無理がある」ということでしょう。無理があるゆえに、長くはそこにとどまれない。
たとえて言えば、お金もないのに無理算段して一流ホテルに滞在し、しばらく素晴らしい暮らしをしたとしても、やがてポロが出て、もとの“貧しき我が家”に戻らなければいけない。
これに対して、我が家そのものを、きちんと建て直すのが仏道修行と言えるかもしれない。立派な宮殿のごとき自分自身をつくる修行です。どこが雨もりするのか(笑い)、どこから、すきま風が入ってくるのか、つまり苦悩の根本原因をきちんと知って、その根っこから直して、住みよい境涯に変えていくのです。
すなわち、人生の苦しみの原因は、ほかでもない自分自身の煩悩にあると見て、その煩悩を克服するため、自己変革に挑んでいく。「無色界」も、それなりに自分の境涯を変えようとしたわけだが、そこには正しき「生命の法」への智慧がない。そこで、どうしても無理が出る。背伸びしているだけで、ちゃんとした足場がないから、また、もとの世界に堕ちていく。

斉藤: 自分自身を宮殿のように変えていく「生命の法」が「妙法」ですね。

名誉会長: 結論すれば、そうです。

須田: 大聖人が、法華経でなければ六道を脱却することはできないと説かれている(御書 p418)ことの意味がよくわかりました。二乗も、妙法によって、初めて六道を超えられるということですね。