投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 7日(月)12時04分53秒     通報
■ 「天」への畏れから宗教は生れた

名誉会長: それではまず、「天界」の基本的な意味を見ておこう。

遠藤: はい。「天」とは梵語の「デーバ」の訳で 天人の住む世界とされています。
「神」と訳されることもあります。もともとは「輝く(光を放つ)」という意味からきています。

斉藤: 「天」ともいい、「神」ともいう —- 「諸天善神」のことを思い出せば、よくわかりますね。
日天子、月天子を含めて、地上の人間を超えた力をもつ存在と考えたわけです。

須田: インドでは古来、今世で善行をなしたものは、来世に天に生まれると考えられていました。

遠藤: 梵天(ブラフマン)や帝釈天(インドラ)は、そうしたインドの神々の一つです。仏教ではそれらを一応取り入れ、生かしたわけです。

名誉会長: 「天(神)」とは、文字通り、大宇宙の力のことではないだろうか。人類は、天空を仰ぎ、その壮大さに、いつも心を引きつけられてきた。そして、天の力を、自分の味方にしようとして祈ったし、時には破壊をもたらす大自然の力を恐れて、危害を避けたいと祈った。
人間は自然の偉大な力を畏れ、その力に額ずいた。自分の努力だけではどうにもならない運命を感じ、よりよき運命を“神々”に祈った。その「祈り」から宗教が生れた。宗教から祈りが生まれたのではなく、祈りから宗教が生まれたのです。
つまり「天」とは、人間が人間を超えた偉大なる存在を感得したことを示している。
多くの動物は下を向いている。人間は二本の足で立ち、顔を上げた。そして大宇宙を仰いだ。「天」に憧れた —- 譬喩的に言えば、そういう進歩があると私は思う。その意味で、輝く「天」は人々の理想であったに違いない。

須田: 確かに、釈尊と同時代に出現した多くの新思想家 —- 六師外道がその代表ですが —- たいてい「天に生まれる」ことを修行の目的に置いていたようです。

名誉会長: 仏法では、「天」を死後に行く世界としてではなく、むしろ生命の境涯のひとつとして位置づけた。また六師外道たちの修行によって得られるとされた境地も、すべて「天界」の中に位置づけています。

遠藤: いわゆる欲界(欲望渦巻く世界)の六天、色界(欲望の支配を離れたが、まだ物質的な制約がある世界)の十八天、無色界(精神が支配する世界)の四天、あわせて二十八天があるとされていますね。

須田: 欲界・色界・無色界で「三界」です。「三界は安きことなし 猶火宅の如し」(法華経・譬喩品)と言われる、あの「三界」です。「六道」は全部「三界」に入りますから、六道と同じ意味になります。

斉藤: このうち「欲界」は、生存欲とか本能的欲望、物質的欲望、社会的欲望などが渦巻いている世界です。
天界(欲天)は、これらの欲望が満たされて喜んでいる境涯になります。たとえば食欲などの欲望が満たされて、それにひたっている境涯も「欲天」でしょう。

須田: 日蓮大聖人は「喜ぶは天」(御書 p241)と言われていますね。

名誉会長: 喜びにも、いろいろある。「欲界」の欲望を超えて、純粋な知的欲求とか、美への欲求、崇高な境地を目指す精神的欲望もある。

遠藤: それらの高次元の欲求が満たされていくのが「色界(色天)」「無色界(無色天)」だと思います。

斉藤: いずれも、真理を求め、その欲求が満たされていく境涯といえるでしょう。

須田: それは、二乗とは、どう違うのでしょうか。特に「無色界」と「二乗」は、精神的に到達する境涯が似ているように思えるのですが。