投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 6日(日)20時41分36秒     通報
■ 何のために「人界」に生まれたのか

須田: はい。例えば、「夫れ三悪の生を受くること大地微塵より多く人間の生を受くるは爪上の土より少し」(御書 p70)と仰せです。

遠藤: また「今既に得難き人界に生をうけ値い難き仏教を見聞しつ今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき」(御書 p494)ともあります。
せっかく人間に生まれ、あいがたき正法を目にし耳にしながら、今世でそのまま何もしないでいたら、一体いつの世に、生死を離れるのか —- いつ永遠の幸福を得られるのかという意味です。

名誉会長: だから元気なうちに真剣に働くのです。広宣流布のために勇んで働いた分だけ、自分の生命の中に「永遠の幸福」への軌道が固まっていく。
仏法では人界を「聖道正器」と言って、仏道を行じられる法器 —- “法の器”としている。その器に仏界の大生命を満たしてこそ、人界に生まれてきた真の意義がある。

斉藤: その意味で、人界は人界以上の境涯を目指して進んでこそ、人界としての意味があると言えるのではないでしょうか。
■ 人類の境涯を引き上げる戦い

名誉会長: そう言えるでしょう。それが「天界」であるし、「二乗界」「菩薩界」「仏界」です。ともあれ「境涯」は不思議です。自分で気がつこうと気がつくまいと、自分の感情はもちろん、振る舞いも、思考も、人間関係も、人生行路も、自分の「境涯」によって大きく決定づけられている。
個人だけではない。社会にも十界の傾向性がある。私どもの広宣流布ほ、個人の境涯を変えるのみならず、一国の境涯を変え、人類の境涯を引き上げる運動です。人類史上、いまだかつてない壮大な実験なのです。
私は今、田中正造翁の晩年の言葉を思い出します。
〈翁は、足尾鉱毒事件で有名な義人(1841~1913年)。近代日本の民衆蹂躙に、生涯、抵抗した〉
「国は尚人の如し。人肥たるを以って必ずしも尊とからず。知徳あるを尊しとす。国は尚人の如し。腕力ありとて尊からず、痩せても知識あるを尊しとす」(明治四十一年十月の「日記」から、『田中正道全集』岩波書店)
日本の国は、内外の民衆を犠牲にして、「富国強兵」の「修羅」の道をひた走り、傲慢になって、魂を失った。「人間としての軌道」を失ってしまった。翁は「日本形ありとするも精神已になし。日本已になし」(大正二年四月二日の「日記」から、同)とも言い切っている。亡くなる四ヵ月前です。日本が形の上でも滅びたのは、その三十二年後です。
同じ悲劇を繰り返させたくないからこそ、私たちは叫んでいるのです。「慢心を捨てよ! 謙虚に人間主義の道を求めよ!」と。
十界論(下)
六道から四聖へ —- 欲望社会を超えて
■ 「天界の栄え」は幻の楽しみ、「生命の大長者」は三世に栄える

遠藤:  ここからは「天界」と「二乗界(声聞界・縁覚界)」です。天界というと何となく、うきうきした“バラ色”のような世界をイメージします。二乗界というと —- 。

名誉会長: “灰色かな”(爆笑)。
斉藤:  灰色ですね。何となく、くすんで陰気な(笑い)イメージです。

須田:  御書で、二乗がこてんばんにやられている情景ばかり読んできたせいかもしれませんが(笑い)。

遠藤: でも、二乗は「四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏」の中ですし、「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)」の輪廻を超えているわけです。境涯としては、随分、上ですね。その分、六道より幸福なはずなのですが。

名誉会長: そこで、なぜ“バラ色から灰色へ”(笑い)と進まなければならないか。天界のままでは、なぜいけないのか。これが。ここでのポイントになる。
結論から言えば、天界がいけないのではない。天界にとらわれ、引きずられて、自己満足してしまうのがいけなのです。健康で、食べるものが十分あって、家庭が仲良く、生活が喜びにあふれている。それは素晴らしいに決まっている。皆がそうあってほしいし、そのように私は祈ってもいます。
しかし残念ながら、バラの花は永遠に咲いているわけではない。季節とともに色あせるし、必ず散ってしまう。生命には生・老・病・死の苦しみがある。

斉藤: 確かに「天は五衰を受く(天人五衰)」と言いますが、天界の喜びはやがて衰える —- そのことを「花がしぼむ」と表現しています(五衰のひとつ)。

名誉会長: 天界の喜びは夢のようなものだ。幻です。夢を追いかける人生は幻です。
仏法の目的は、永遠に崩れない幸福をつくることだ。はかないバラのような幸福ではなくて、永遠にわたって崩れない宮殿を自分自身の生命に打ち建てるのです。「自分自身が金剛の宮殿になる」のが信心です。そびえたつ宝塔になるのです。
その宮殿には季節季節の「天の喜びの花」も咲いている。煩悩即菩提であるゆえに、悩みがあればあるほど、より大きな充実を味わっていける。そういう「金剛の心」をつくるのが真のの四聖です環境に左右される自分から、環境を左右していく自分への人間革命です。内面に不動の宮殿をつくるのです。二乗という求道の生命は、その「永遠の天宮」をつくる土台づくりに当たるといえるかもしれない。

須田: “灰色”ではなくて“いぶし銀”といったほうがいいですね(笑い)。

遠藤: 今の世情も、まさに“バブル崩壊”であり、うたかたの泡のごとき繁栄“つけ”が回ってきています。「欲望を満足させればいいんだ」という文明は、苦しみの境涯になる —- 「六道輪廻」との仰せを、今の日本では、だれもが、はっきりと実感できるのではないでしょうか。

名誉会長:「欲望の魔力」だ。「欲望の魔力」に人間自身が骨抜きにされてしまった。堕落してしまった。それで、何の幸せがありますか —- 。
欲望を満足させた「欲天」の頂上には「第六天の魔王」がいる。欲望を追求するだけの人生・社会は、この魔王が支配するのです。これほど不幸なことはない。

斉藤: 確かに現代の文明は、欲望追求を善とする文明であり、いわば「天界」を理想としてきたと言えると思います。その行き詰まりは、だれの目にも明らかです。

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六道の苦しみ —- 譬喩品から

「諸の衆生を見るに、生老病死、憂悲苦悩に焼煮せらる。亦、五欲財利を以っての故に、種種の苦を受く。又、貧著し追求するを以っての故に、現には衆苦を受け、後には地獄、畜生、餓鬼の苦を受く。若しは天上に生れ、及び人間に在っては、貧窮困苦、愛別離苦、怨憎会苦、是の如き等の種種の諸苦あり。衆生其の中に没在して歓喜し遊戯して、覚えず、知らず、驚かず、怖ず。亦、厭うことを生さず、解脱を求めず。此の三界の火宅に於いて、東西に馳走して大苦に遭うと雖も、以って患と為さず」(法華経 p215)

多くの衆生を見ると、生・老・病・死、憂い・悲しみ・苦しみ・悩みに焼いたり煮たりされており、また五種の感覚から生ずる欲望(色欲・声欲・香欲・昧欲・触欲)や財産の利益を追求することのゆえに、種々の苦を受けている。また貪って執着し、追い求めることのゆえに、現世では多くの苦を受け、死後には地獄・畜生・餓鬼の苦を受ける。もしくは天上に生まれ、あるいは人間界に生まれても、貧乏して窮迫して困る苦、愛するものと別れ離れなければならない苦、怨み憎んでいるものと会わなければならない苦、このような種々の多くの苦がある。それなのに、衆生は、その中に埋もれていて、(はかないものに)歓喜し、遊び戯れて、自覚せす、知らず、驚かず、恐れない。また、(それらの苦を)厭う心を生じさせす、解脱を求めない。この全世界の燃えている家の中で、東西に走り回っていて、大きな苦にあっても、それを思い患わないでいる。
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名誉会長: 行き詰まりの根本は、目が「外」ばかりを見て、「内」を見ていないところにある。なかんずく、「生老病死」という人間の根本問題から目をそらしているところにある。その閉じた目を開くのが法華経であり、寿量品です。
人間は生死を見つめてこそ、真の人生へと開眼する。生と死という淵に立ては、浅はかな自己満足など吹っ飛んでしまうでしょう。その実例は無数にあります。