投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 6日(日)14時13分38秒     通報
名誉会長: 人間が人間らしく生きることの難しさです。いわんや悪世であり、悪縁ばかりの世界です。だからこそ、「人間らしく生きる」には、絶え間なく向上する「軌道」が必要です。それが私どもの仏道修行です。コマも静止してしまえば倒れてしまう。安定していられるのは猛スピードで回転しているからです。
そもそも、人間は「人間に生まれた」から人間なのではない。「人間らしい人間になろう」と努力してはじめて人間になるのではないだろうか。
以前、インドのカルカッタ近郊の小さな村で、「オオカミに育てられた少女」が二人、救出されるという出来事があった。〈1920年〉
二人は二歳と八歳ぐらい。救い出した時、顔かたち、姿は人間であっても、することなすこと全部が、オオカミと同じだった。昼間は暗い部屋の片隅で眠ったり、身動きしないでじっとしている。夜になって、あたりをうろつきまわり、夜中には何度か遠吠えまでした。手で食べることも、二本足で立つこともできなかった。

斉藤: その語は聞いたことがあります。その後、何とか人間の子どもに戻してやりたいと手を尽くしたけれども、結局、オオカミの習性は、死ぬまで、ほとんど直らなかったそうですね。

名誉会長: そう。かわいそうに、幼いほうの子どもは、間もなく死んでしまった。大きいほうの少女は九年間生きたが、十七歳になっても、やっと四つか五つの言葉を使えるだけだったという。

斉藤:「人間に生まれた」ということは「人間になる可能性をもっている」ということにすぎないのかもしれません。

名誉会長: だから教育が大事なのです。「人間らしい人間」になるための人間教育が必要なのです。

遠藤: そう言えば、こんな話を聞きました。子どもがテストで百点を取って帰ってきた。母親は、開口一番「百点はクラスに何人いたの?」と聞いたというのです。「たくさんいた」と言ったら、「じやあ、百点でも当たり前ね」と。

須田: 子どもは、やりきれませんね(笑い)。

遠藤: 子ども自身が何を学び、どれだけ進歩したのか —- その喜びや努力を見ないで、“他人と比べてどうか”ということばかり気にする。これでは、修羅界の人間を育てているようなものではないでしょうか。

名誉会長: 「平凡でも、人間らしく生きる」ことが難しい世の中に、だんだん、なってきている。十界論では「人界」は十界の中心に置かれている。ここからさらに上の境涯に行くこともできるし、下の境涯に転落することもある。そういう要の位置にあると言ってよい。だからこそ大聖人は、せっかく人界に生をうけたのだから、より高い境涯を目指して歩みなさいと、繰り返し繰り返し、仰せなのです。