投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 5日(土)18時03分33秒     通報
■ 「人権の防波堤」として

須田: 反対に言うと、日本の社会というのは、「皆と同じ」ことをやっている分には、とても居心地がいいんですね(笑い)。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」です。

名誉会長: だから「信念をもった個人」をつくる必要があるのです。国家主義の危険が高いからこそ、今、戦わなければならない。

斉藤: 創価学会が、そういう「人権の防波堤」になっているがゆえに、国家主義的勢力から攻撃されています。

名誉会長: 敢然と「獅子王の心」で戦うのです。「獅子奮迅」の力を出すための法華経です。「師子奮迅之力」(涌出品、法華経 p484)を出すのが地涌の菩薩であり、仏です。
邪悪に対しては、それこそ阿修羅のように戦わなければならない。“仏法は勝負”であり、勝つ以外にない。「広宣流布のために」戦い切れば、修羅の生命も仏の働きをする。十界互具です。その奮闘には三世十方の仏菩薩が「あっぱれ」と喝采を送るでしょう。
反対に、「自分のため」は卑しい。自分のエゴで、人を見下し、傷つけるのは提婆達多の生命です。そういう卑劣な「勝他の念」は自分が不幸です。

斉藤: たしかに不幸だと思います。釈尊に敵対した提婆達多は、ともかく「釈尊に勝つ」ことが執念でした。そのために、あらゆる悪に手を染めましたが、釈尊は泰然自若としている。その姿を見るたびに、自分の卑小さとの違いを見せつけられているようで、悔しさのあまり、ますます修羅の道に、のめり込んでいった。最後は地獄の境涯に転落してしまった。

須田: 提婆達多が、釈尊よりも厳格な修行(五法)を掲げて清廉そうな外見を示したのも「下品の善心」ですね。

名誉会長: 修羅は、自分をだまし、人もだまし、うそにうそを重ねた人生を生きている。本当の充実もなければ、生命空間の拡大もない。小さな幻想の自我にしがみつき、虚勢を張りながら、哀れに生きているのです。

遠藤: さきほどの『平気でうそをつく人たち』(森英明訳、前掲書)にもこうありました。「自分自身を照らし出す光や自身の良心の声から永久に逃れつづけようとするこの種の人間は、人間のなかでも最もおびえている人間である。彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送りこむ必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである」。

名誉会長: 「慢」の心は、いつも揺れ動いている。安定し、安らぐことがない。相手を動揺させようとしていながら、実際に揺れ動いているのは、嫉妬の人間のほうなのです。
大聖人は、法華経の敵の“眼の転倒”を、こう指摘された。「自分の誤りをかえりみない者が(大聖人を)嫉妬するあまり、自分の目が回っているのに、大山のほうが回っていると見ている」(御書 p1453、趣意)。
大山は不動です。それなのに、大山が回っているように騒ぐ人間は、自分の目が回っていることを告白しているに過ぎない。

斉藤: それを見扱く「鏡」が十界論ですね。多くの人々は、目が回っている嫉妬の人間に同調して、大山の偉大さを正しく評価することができません。

名誉会長: まさに「猶多怨嫉」です。〈法華経法師品に、釈尊在世すら「猶怨嫉多し。況や滅度の後をや」(法華経 p390)と。末法の法華経の行者には、釈尊在世以上の、多くの憎しみと嫉妬が襲うこと〉
修羅界の考察が大分、多くなってしまったが、これも「猶怨嫉多し」だから、しかたがないだろう(笑い)。