投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 5日(土)06時43分19秒     通報
■ 「嫉妬社会」は転落する

名誉会長: 日蓮大聖人は、当時の日本の社会を「嫉妬の思い甚だし」(御書 p544)と仰せです。今もその傾向性は変わっていない。
また日本のみならず、「嫉妬社会」になった国は転落していく。よきものを尊敬せず、引きずり落とそうとするからです。
その実例としては、古代ギリシャのアテネが有名です。

遠藤: アテネが「嫉妬社会」であった象徴は「陶片追放(オストラキスモス)」の歴史です。「独裁者を防ぐため」という名目で、“独裁者になる危険がある人物”を投票で決め、追放する制度です。

須田: それが、どんなに悪しき制度であったか。以前、池田先生は『ブルターク英堆伝』の中から紹介してくださいました。
—- 人々が投票しようとしていたとき、「正義の人」アリスタイディーズに文盲の男が近づいてきた。自分で字が書けないその男は、本人(アリスタイディーズ)と知らずに、「ここに、アリスタイディーズと書いてください」と言った。「正義の人」は男に尋ねた。「彼(アリスタイディーズ)は、何か、あなたに悪いことをしましたか」
男は答えた。「いいや迷惑なんぞ一つだってありやしない。当人を識ってもいないんだが、ただどこへ行ってもあの男が正義者正義者と呼ばれるのを聞きあきたまでさ」
「正義の人」は、黙って自分の名前を書いて、男に渡した。そして、追放された。ブルタークは書いています。
「最近の戦勝によって思いあがりうぬぼれきった民衆の心は、自然に通常以上の名声を有するすべての人にたいする嫌悪の情をいだいた。それゆえに四方よりアゼンス(注=アテネ)に集まった彼らは、アリスタイティーズの名声に対する嫉妬に専制忌怖の名目を与えて、彼を貝殻追放(注=陶片追放)に処した」(前掲書)

名誉会長: 歴史の教訓です。国は栄え、民衆は「自分たちは大したものだ」とうぬぼれていた。そして、人を尊敬する心を失っていった。少しでも優れた人物が出てくると、嫉妬し、足を引っ張った。その結果、一流の人物は皆、いなくなり、二流、三流ばかりになっていった。
やがて、国を支える人物がいなくなり、国は没落し、最後は戦争に負けて、栄光の歴史の幕を閉じたのです。

斉藤: 嫉妬というのは、恐ろしいですね。国をも滅ぼしてしまう。嫉妬の正体は、どんなものか。多くの研究がありますが、哲学者の三木清は、こう書いています。「嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起る」(「人生論ノート」『三木清全集』 岩波書店)。
「しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとする」(同)
■ 嫉妬されるほうが優れている

名誉会長: 相手に勝つために、自分を高めるのではなく、相手を引きずりおろそうとする —- 慢心というものは不毛です。そんなことを一生懸命やっても何にもならない。人を傷つけて喜んでいても、自分は少しも偉くなっていない。幸福にもなっていない。
十界論は「幸福の追求」です。修羅界の「勝他の念」には、本当の幸福はない。
いつも、自分より優れた存在にいらつき、自分の真の姿をさらすことにおびえている。その「おぴえ」を癒すために、嫉妬して相手を引きずりおろそうとするが、そうすればするほど、実は自分がみじめになるのです。

須田: どうしてでしょうか。

名誉会長: 嫉妬するということは、実は、相手のほうが優れていることに、ひそかに気づいているからです。「嫉妬は称賛の一種」という言葉があるが、相手が優れていることを心の底では認めているのです。
しかし、その事実から「修羅」は目をそらそうとする。

須田: 自分のちっぽけな姿を見ようとしないわけですね。本当にプライドが高い(笑い)。

名誉会長: その慢心が修羅を不幸にしている。だれかを優れた人物だと認めれば認めるほど、その人を妬み、憎んでしまう。そうすればするほど、自分が、つまらない存在であることに気づかされ、その悔しさをさらに相手にぶつける —- という悪循環に陥る。
本当は、何か偉大なものを心から尊敬した分だけ、自分も偉大になれるのだが。
ゲーテは当時の学界や文学界の人々のことを「本当に偉大なものは、彼らには不愉快で、そんなものは世の中から放っぽりだしかねないし、そうすれば、彼ら自身がそれだけ少しでも有名になるとでも思っている」と嘆いた。〈エッカーマン著『ゲーテとの対話(上)』山下肇訳、岩波文庫〉

斉藤: 嫉妬は、確かに不毛です。三木清も書いています。「嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない」(「人生論ノート」)。あっちでも、こっちでも、無意味なことを、とりつかれたようにやっているというのです。

名誉会長: 何が、そうまでさせるのか。そこがポイントだね。

遠藤: さきほど「修羅はおびえている」と言われましたが、嫉妬の根っこも「自信のなさ」ではないでしょうか。その証拠に、嫉妬している人は、「自分は嫉妬のために、人を攻撃している」とは、なかなか認めません。必ず何か別の理由を見つけます。それは「嫉妬している」と認めたとたんに、自分のほうが相手よりも劣っていることを認めることになるからです。それは「勝他の念」には、耐え難いことです。

斉藤: だから嫉妬する人間は、いつも「正義」の仮面をかぶるわけですね。

須田: たしかに俗悪週刊誌なんか、いい例ですね。人を引きずり落とすためには「平気でうそをつく人々」です。しかも、常に社会正義だとか言論の自由だとか、立派そうな外見をつけています。
しかし、やっていることは、「はじめに結論ありき」で、だれか、やっつける相手を見つけたら、相手を傷つけるために、ありとあらゆる卑劣な手を使うわけです。ある学者いわく、そこにあるのは「ファクト(事実)」ではなくて、「ストーリー(物語)」だと。勝手につくった「ストーリー」を、ばらまいているだけなのです。

遠藤: 彼らのために、どれほど多くの人の人権が破壊されたかわかりません。まさに現代の「陶片追放」ではないでしょうか。放置しておけば、社会が転落していくのは当然だと思います。
立派なことをやればやるほど嫉妬して、引きずりおろそうというのですから。