投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 4日(金)12時49分34秒     通報
■ 自分が、さらけ出される「恐怖」

名誉会長: そのように、「我慢」は、いつしか「忍耐」の意味で使われるようになった。なぜだろうか。慢心は、時に強靭な意志力を発揮するのです。「素晴らしい自分」という幻想の自己像を守るために、すさまじいエネルギーを出すのです。

斉藤: 自分自身の向上に、それだけのエネルギーを注げば素晴らしいのに、「偽りの自分」に執着し、守るためにエネルギーを使ってしまうのですね。

名誉会長: そこに「修羅」の不幸がある。その心は、いつもおびえている。自分の「本当の婆」を暴かれることを恐れている。
「佐渡御書」には「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」(御書 p957)と仰せです。その反対に、「獅子王の心」は何ものも恐れない。自分を守るためではなく、正法を守り、民衆を守るために生きているからです。

遠藤: 「修羅は身長八万四千由旬・四大海の水も膝に過ぎず」(日寛上人の「三重秘伝抄」)と、巨大な姿で説かれています。大海の中に立っても、水が膝くらいまでしかこない。それくらい大きな姿なのですが、これは主観的な自己像であって、実像とは違うということですね。

須田: たしかに慢心している心は、自分を大きいように錯覚します。しかし、帝釈天のような本物の力をもった存在に、慢心を打ち破られると、とたんに池の中の蓮の中に隠れるくらい小さくなってしまう。

遠藤: 風船がしぼんだような婆ですね。

斉藤: こうして見てくると、阿修羅というのは、非常に多くの現代人を特徴づけているのではないでしょうか。
最近話題になった『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著、森英明訳、草思社)で分析されている「邪悪な人」というのは、「修羅界の人」と大変、共通しているように感じるのです。

遠藤: 私も読みましたが、平気でうそをつく「邪悪な人」とは決して特殊な例ではなく、どこにでもいる普通の人の中にいるという趣旨でしたね。

斉藤: ええ。その特徴は「自分には欠点がないと深く信じこんでいる」。
「完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しょうと絶えず努める。彼らが心をわずらわせることはまさにこれである」
「彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって『善』とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている」

須田: なるほど、「下品の善心」で外面を飾るということですね。