投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 4日(金)06時35分9秒     通報
十界論(中)
■ 「修羅」の嫉妬社会から「人道」の人権社会へ

斉藤: 十界論の続きです。これまでが、(1)地獄界(2)餓鬼界(3)畜生界の「三悪道」でしたので、ここからは「修羅界」から見ていきたいと思います。

名誉会長: 勉強しましょう。自分の境涯革命のために。十界論は「鏡」です。この鏡をもてば、自分が見えてくる。他人が見え、社会が見え、何をなすべきかが見えてくる。

須田: はい。修羅界・人界・天界は、三悪道に対して「三善道」と言われます。両方を合わせて「六道」です。

遠藤: 不思議に思うのは、修羅界は三悪道と合わせて「四悪趣」と言われるのに、「三善道」にも入っている。善でもあり、悪でもあるのですね。

名誉会長: そのことも、考えておく必要があるね。まず基本的な意味を見ておこう。
■ 修羅界 —- 他人を見下す慢心

遠藤: 修羅界の「修羅」とは「阿修羅」のことで、梵語のアスラの音訳です。古代インドでは、正義の神の一つでしたが、やがて魔神として位置づけられるようになりました。

須田: 日蓮大聖人は「諂曲なるは修羅」(御書 p241)と説かれています。「諂曲」とは「諂い」「曲がった」心のことです。「諂」も「曲」も「心が曲がっている」ことです。なかんずく「自分の本心を見せないで、従順をよそおう」のが「諂い」です。

遠藤: 「修羅」というと、何か「肩をいからせて、いばっている」姿を思い浮かべそうですが、「へつらう」というのは、イメージが反対です。修羅の境涯は、一見、大変に謙虚にさえ見えるということでしょうか。

名誉会長: そこに問題がある。修羅は「慢」の生命です。「慢」は、七慢・九慢など、いろいろ分類されているが、要は、他人と自分を比べて、自分が優れ他人が劣っていると思いこむ煩悩です。
いわば“自分は素晴らしい”という自己像を抱いている。その自己像を壊さないことに修羅のエネルギーは注がれていくのです。だから人にも「素晴らしい人だ」と思われるために、「本心を明かさない」 —- すなわち「諂う」のです。

遠藤: 本心と外見が違っているわけですね。だから、心にもないことも言う。これは三悪道にはなかったことです。かなり知能犯というか、ある意味で、高級になっているわけですね。

斉藤: 確かに、修羅について天台は、内面と外面が違うと述べています。
「常に他人に勝つことを願い、それが叶わなければ、人を見下し、他者を軽んじ、自分だけが偉いとする。それはまるでトンビが高く飛び上がって、下を見おろすようなものである。それでいて外面は、仁・義・礼・智・信という徳を見せようとして、下品の善心を起こし、修羅道を行ずるのである」(摩訶止観)。内面では、自分より優れた者の存在を許せない。人を心から尊敬することができない。自分だけが偉いと思っている。「勝他の念」を燃やしている。
しかし外面では、そういう心を、おくぴにも出さない。仁・義・礼・智・信を備えた人格者のように振る舞う。そうすることによって、「人格面でも優れている」と人に思わせ、あるいは、自分でも思いこもうとするのかもしれません。

遠藤: 「これほど謙虚な自分は立派なのだ」と慢心したり(笑い)。

須田: 内面と外面が違う。「うそつき」だということが修羅の特徴ですね。

名誉会長: 同志を裏切っていった反逆者は、そういう連中であった。外面に、だまされてはならない。

斉藤: たしかに、「諂曲」とある通り、かなり「曲がって」います。

名誉会長: そう。心が「曲がっている」から、自分についても、相手についても、正しく見ることができない。「慢」という「ゆがんだレンズ」を通して見る自己像は常に大きく、素晴らしい姿をしている。だから、人から学べないし、自分を反省することもない。人間としての成長がない。
「御義口伝」には「上慢(増上慢)」と「我慢」についての文句記の文を挙げられています。「疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わぎるは我慢を釈す」(御書 p718)と。

斉藤: 自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが「増上慢」。特に、仏道修行の成果を得ていないのに、得たと傲ることです。そして、自分勝手な考えに執着して、反省しようとしないのが「我慢」です。

名誉会長: 法華経の方便品には、悪世の衆生は「我慢にして自ら矜高し 諂曲にして心不実なり」(法華経 p177)と説いている。我慢の心が強く、自らを誇り、高ぶっていながら、心は曲がり、率直でも誠実でもない、と。 その通りの世相ではないだろうか。

須田: よく「我慢しなさい!」と、お母さんが子どもを叱ったりしますが、本当は「我慢」は、いけないのですね(笑い)。