2015年9月3日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月 3日(木)12時17分40秒 通報 ■ 畜生界 —- 目先にとらわれた「癡」 須田: 「畜生界」は、どのような境涯でしょうか。 斉藤: 本来は、もちろん鳥や獣などの動物の境涯です。「観心本尊妙」には「癡は畜生」(御書 p241)とあります。三毒の中の「愚癡」ですね。人間で言えば、目先のことにとらわれ、物事の道理に暗いというのがその本質です。 遠藤: 「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(御書 p957)と仰せのように、正邪・善悪の判断がつかず、本能のままに生きる境涯です。 地獄界や餓鬼界に比べて、生命空間は広がっているように思いますが、やはり悪道を出ていません。 名誉会長: 自分の中にきちっとした善悪の基準がない。規範がない。本能的に行動して、恥じるところがない。 まさに「弱きをおどし強きをおそる」という「力の論理」です。弱肉強食です。人間でありながら、“人間らしさ”を失った婆と言えるでしょう。 須田: 戦争における残虐行為は、「力の論理」の極限です。兵士も、最初は良心の呵責があっても、上官の命令だからと「強きをおそれて」自分を正当化するうちに、良心が麻痺してしまう。やがて「今日は何十人殺してやった」と自慢するようになった者さえいたといいます。 その結果、ナチスや日本軍は、動物ならとてもやらない残酷な大量虐殺までしてしまいました。 名誉会長: “最も危険な野獣”が、人間の中には住んでいる。 ドストエフスキーが書いていた。 「よく人間の残忍な行為を『野獣のようだ』と言うが、それは野獣にとって不公平でもあり、かつ侮辱でもあるのだ。なぜって、野獣は決して人間のように残忍なことはできやしない」(『カラマーゾフの兄弟』米川正夫訳、河出書房新社)と。 遠藤: 確かにそうだと思います。動物は自分を守るために、生きるためには敵と戦い、殺したりしますが、仲間同士では互いにいたわるという面も見られます。それ自体、生得的なものかも知れませんが —- 。 これは、ホシムクドリの例ですが、餌の山を見つけた彼らの一群に、足をけがした仲間がいました。すると、足の悪い鳥が餌のところに到着するまで待って、それから一斉に餌をむさぼり始めたそうです(モーリス・バートン著『動物に愛はあるか』、垂水雄二訳、早川書房)。 名誉会長: 反対に、野生児として育った人間の例があったね。 須田: はい。両親に捨てられ、森の中で育ったフランスの少年も、その一例です。興味深いのは、彼は、食物とねぐらを探すこと以外は、まわりの世界に対して全く無関心だったことです。 聴力は正常でしたが、食べ物に関係のない物音には全く関心を払わなかったそうです。また、誰に対しても愛情を示さず、特定の誰にも愛着を示さなかったと言います。 名誉会長: 人間は人間として教育されて、はじめて人間になる。人間に生まれたから人間なのではない。人間として育てられて、初めて人間となるのです。だから、教育が大切なのです。 「畜生道の地球」(桐生悠々)という言葉があったが、弱肉強食の戦争が起こったのは、真の「人間」があまりに少なかったからです。「畜生」の心に世界が翻弄されてしまった。その悲惨を二度と繰り返さないためにも、「人間らしい人間」「人間性あふれる人間」を、陸続と世界に輩出していかなければならない。これが私の信念であり、悲願なのです。 いわば広宣流布とは、人類の命運を担った人間教育の大運動です。 須田: 本能のままに生きる「畜生界」が、「癡」と言われるのは、結局、それでは幸福になれないからでしょうか。 名誉会長: 自分では幸福に向かっているっもりで、結局は反対の方向に行っている。目先のことしか見えないので、結局、最後は破滅してしまう。 大聖人は佐渡御書に「魚は命を惜しむゆえに、池に住んでいるのだが、池の浅いことを嘆いて池の底に穴を掘って住む。しかし、餌にだまされて釣り針をのんでしまう。鳥は木に住む。木が低いと(つかまるのではないかと)恐れて、木の上の枝に住む。しかし、餌にだまされて網にかかるし(御書 p9556、趣意)と言われている。 目先の「餌」に飛びっいて、結局、破滅し、転落していってしまう。これが「癡」ということでしょう。 須田: たしかに、人間でも、そういう人生は多いですね。 遠藤: 畜生界の因果について、大聖人は「愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて之を償わぎる者此の報を受くるなり」(御書 p430) —- 癡で自らを省みる心がなく、信者から布施を受けてもこれに報いない者は、この(畜生界の)報いを受ける —- と、厳然と仰せです。日顕宗の末路を鏡に映すようです。 Tweet