投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 3日(木)06時27分59秒     通報
■ 餓鬼界 —- 「貪る」欲望の奴隷

遠藤: 次に「餓鬼界」です。餓鬼の原義は、梵語のプレータ(死者)です。単なる死者の意味でしたが、仏教では、畜生や地獄と並んで、死後の人間が陥る不幸の世界として扱われていきます。
またプレータは「祖霊」という意味もあり、インドでは祖霊の多くは飢えて食物を欲しているとされていました。そこから死者を「餓鬼」と呼ぶようになったと思われます。

須田: 日本の「お盆」(盂蘭盆会)も、餓鬼道に堕ちた祖先を救う行事で、「施餓鬼」と言われます。

斉藤: 大聖人は「貪るは餓鬼」(御書 p241)と言われ、三毒のうちの「食欲」に配されています。天台は、「此の趣(趣くところ)は飢渇多し、故に餓鬼と名づく」と記しています(法華文句)。飢えにさいなよれ、どこまでいっても満たされない境涯ですね。

名誉会長: 欲望に振り回される境涯です。そのために、心が自由にならず、苦しみを生じる。欲望の奴隷になっている。

遠藤: はい。ただ地獄界に比べれば、生命空間はわずかなぜら広がっているように思います。囚われの境涯を脱して、“何か”を求めて生きようとしているわけです。

須田: 欲望は「生きるエネルギ」でもありますからね。ただし、その欲望が満たされず、深刻な“欲求不満”の状態に陥っているのです。
食べるものがない。着るものや、住む家がない。こうした飢餓や貧困は、現代世界の深刻な課題です。

斉藤: しかし、いわゆる“豊かな社会”にも「飢え」はあります。
例えば昨年、アメリカの『ニューズウィーク』誌に、アメリカの現代社会について「うまくいっているのに、誰もが不満をもっている。それが私たちの時代のバラドックスだ」(日本版1996年二月二十一日号)という論評がありました。

名誉会長: 人間の欲望には際限がない。「生きる」という根本的欲望があり、更に食欲などの本能的欲望、所有欲などの物質的欲望、自己顕示欲などの心理的欲望がある。

須田: 権力欲、名誉欲、支配欲などもそうです。人に尊敬され、愛されたいという欲求もあります。

名誉会長: 人間は、欲望がなくては生きていけないことも事実です。また、それらの欲望が人間を進歩させ、向上させるエネルギーになる場合もある。
だから餓鬼界は「この道は余道と往還し、善悪相通ずる」(立正阿毘曇論)と言われる。欲望を、どう使っていくかが問題なのです。餓鬼界というのは、欲望を価値創造に使うのではなく、欲望の奴隷になっている、境涯です。欲望ゆえに自分を苦しめ、他人をも傷つけていく —- だから「悪道」と呼ばれる。

斉藤: 現代文明は「欲望肯定の文明」であり、「欲望解放の文明」とも言えるでしょう。その結果、肥大し巨大化した欲望が“主人”のように君臨し、人はその奴隷となって苦しんでいる —- 皮肉な現状です。

遠藤: ところで日蓮大聖人は、餓鬼道の因果について、「名利を貪るが為に不浄説法する者此の報を受く」(「十法界明因果抄」、御書 p429)との経文を引かれています。出家でありながら名声と私利私欲を貪るために、汚れた説法をする者は餓鬼界に堕ちる、と。日顕宗の悪僧たちの姿そのものです。

須田: そう言えば、「昔陰涼樹を伐り及び衆僧の園林を伐りし者此の報を受く」(同)ともあります。大石寺の二百八十本もの桜を無残に切り捨てた日顕は、この経文通りです。

斉藤: 大聖人は、名利を貪る出家者を「食法がき」(御書 p1111)と喝破されています。信徒を食い物にして放蕩にふける日顕宗は、まさに“餓鬼の教団”ですね。