投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 2日(水)20時11分1秒     通報
■ 「自分自身の地獄を背負って」

須田: 地獄界の代表というと提婆達多です。釈尊の弟子でありながら師である釈尊に怨嫉し、その命までつけ狙った極悪人です。

斉藤: 仏を迫害した因果の理法の上からも、地獄界といえるでしょう。しかし、一個の人間として見た場合にも、彼はあまりに不幸な地獄の境涯だったのではないでしょうか。

名誉会長: 釈尊がいる限り、自分の思い通りにいかない。自分の前にヒマラヤのごとく超然と聳え立つ釈尊 —- 。提婆は、自分より優れた人を尊敬するどころか、その存在を許すことすらでさなかった。男の醜悪な嫉妬です。
その憎しみと恨みで心が閉ぎされ、氷のように凍てついてしまっている。心の牢獄です。がんじがらめになって、自分でその心をどうすることもできない。まさに地獄というほかはない。

斉藤: スターリンの伝記によると、彼は自分よりもすぐれた人々、際立った能力を持った人物に出会うと、激しい嫉妬や羨望、憎しみに駆り立てられたと言います。
そして、「平静に見える風貌の下で彼は狂わんばかりになっていたのだ」(ヴィクトール・セルジュ『スターリンの肖像』吉田八重子訳、新人物往来社)、「せまい額と凍りついたようなかたい微笑を浮かべた彼の内部に、自分自身の地獄を背負って、彼流に進んで行くのだ」(同)と指摘されています。

名誉会長:「自分自身の地獄を背負って」とは、見事な表現だね。だれのことも信じられず、いつ人に裏切られるかわからない、と戦々恐々としている心。これ自体、「不信」の牢獄につながれ、もがき苦しんでいる境涯でしょう。自我が極限まで小さくなって、わずかな空間に閉じ込められている姿です。
もちろん、提婆やスターリンの「嫉妬」そのものは修羅界に通じるとも言える。また、人を意のままに操ろうといぅのは、(天界のうち)他化自在天(欲界の第六天)という権力の魔性です。地獄界とは、彼らの中にあった、自分を自分でどうにも変えられない弱さと苦悩を指している。地獄は「地の下」にあると説かれるが、どんどん生命が重く沈んでいく境涯です。
例えば家庭不和で苦しむ。病気で苦しむ。嫉妬の炎に苦しむ。その苦しみをもたらしたものへの「瞋り」の嵐が渦まいている。
決して、自分自身にその原因があるとはとらえられない。そうとらえるだけの生命力がないのです。ゆえに、他を恨み、他に「瞋る」。
また、苦しみをどうにもできない自分自身にも「瞋り」の炎が向けられることもある。その場合も、自分で不幸の青任を引き受け、変えていこうという強さではなく、無力な自分へのやり場のない恨みであり、「うめき」なのです。

遠藤: まさに「不自由」そのもの —- 獄に囚われた境涯です。

名誉会長: 反対に、たとえ身は牢獄にあっても、人間の尊厳を信じ、民衆を愛する人は、心は大空のように広がっている。
日蓮大聖人しかり、牧口先生・戸田先生もそうであった。南アフリカのマンデラ大統領も、「地獄」と呼ぶほかない牢獄で一万日(二十七年半)を過ごされた。それを支えたのは、人間の尊厳を勝ち取ろうという不屈の信念です。
「一時間が一年のようでした」 —- この言葉の実感は、獄中生活を体験した人でなければわからない。それでもなお、大統領は、人間への温かいまなぎしを失うことがなかった。そこに、人間としての偉大さがある。

斉藤: 人は逆境にあったり、困難に直面すると、ともすると自分一人が不幸であるかのように思って、他の人を恨み、社会を恨み、自分の殻に閉じこもってしまうことが、よくあります。仏法でいう「地獄」とは、与えられた境遇や環境にあるのではなく、むしろ環境に振り回され、支配され、そこから一歩も抜け出ることができない「生命力の弱さ」だと思います。

名誉会長: そう。他のどこにあるのでもない。
日蓮大聖人は「抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね侯へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も侯、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候」(御書 p1491)と仰せです。
「心」の中にあるのです。だからこそ「心」を変える以外に、幸福はないのです。