投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月30日(日)21時00分53秒     通報 編集済
■ 根源の仏に迷う「才能ある畜生」

名誉会長: 「無始の本仏」を知らしめるために、法華経本門はあった。いな、仏教全体が、そのためにある。その根源の仏を知らなければ、三世の諸仏の師を知らないことになるし、成仏は思いもよらない。父を知らない子どものようなものであり、ゆえに「自分がだれであるか」もわからない。大聖人が「寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生」(御書 p215)と言われた通りです。
自分の生命の根源 —- 自分がどこから来たのかを知らない。自分が無始無終の大生命と一体の尊極の存在であることを知らない。ゆえに他人の尊厳もわからず、争い合い、傷つけあって生きている。これでは、どんなに威張ってみても人間は「才能ある畜生」にすぎないというのです。
父子の義を知らないので「畜生」と言うのでしょう。「開目抄」の初めに「三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず」(御書 p186)と仰せです。

須田: 「才能ある畜生」とは、まさに現代文明の一凶を撃つ言葉だと思います。科学技術をはじめ才知は爆発的に伸びた。しかし、人間の境涯は変わっていない。動物的なままです。

遠藤: 彗星の軌道は正確に計算できるようになりましたが、それに比べ、人間の内なる宇宙への探究は進んでいません。

名誉会長: これを真の「人間らしい人間」に境涯を引き上げようというのが法華経です。広宣流布です。

斉藤: 確認しますと、「無始」という「永遠」の視座によって、はじめて九界と仏界が真に“即”することになったということですね。考えてみれば、通常の論理では「因から果へ」というのが当然だと思います。
しかし、生命の実相である「無始の本仏」の世界はそうではない。仏界(仏果)が九界(仏因)とともに倶時に実在する“不可思議”の世界です。通常の因果の観念を打ち破る、妙なる「因果倶時の世界」であると。

遠藤: 発迹顕本しなければ、そういう「因果倶時の世界」は示せないということですね。今世で初めて成仏したというだけでは、因が先にあって果が後にある因果異時のレベルしか示せません。
しかし、釈尊が悟ったのは、実は「因果倶時の妙法」であった。それを示すために発迹顕本したということですね。

名誉会長: その「因果倶時の法」とは「無始の本仏」である南無妙法蓮華経如来の生命です。この久遠の妙法を修行するのが「本因」であり、修行して得られる仏果が「本果」です。「本因本果の法門」とは、この一法を示さんとしているわけです。それが発迹顕本の目的でもある。
「本因」というのは、そこに一切の修行を含む「成仏の根本的な因」という意味が込められている。この本因を修行すれば、歴劫修行の必要はない。
■ 仏因も仏果も“同時に得る”妙法

須田: 「当体義抄」の有名な御文の意味が、はっきりしてきました。「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」(御書 p513)。

名誉会長: そう。文底の本門に至ってこそ、一切衆生の生命に「蓮華」の大輪の花が咲くのです。「因果倶時」という「蓮華」の法が顕れるのです。大事なところだから、別の観点から整理しておこう。
本門では、仏の生命に、仏界も九界も永遠に具わっている。仏界だけではない。九界だけでもない。両方が“共に”“永遠に”具わっている。そこで、この本門の法門を指して、大聖人は「因果並常の宗」(御書 p871)と呼ばれています。これに対して爾前権教は「因果異性の宗」(同)と呼ばれている。

須田: はい。爾前権教の仏は、九界の生命を絶ち切って初めて実現できる境涯でした。いわゆる「厭離断九(九界を厭離し断つ)の仏」(御書 p403)です。何度も生まれ変わって歴劫修行をし、九界の迷いの生命を断ち切って、ようやく仏になれるというのですね。
仏因と仏果がまったく異なったものとして断絶しているので、大聖人は「因果異性の宗」と呼ばれました。

遠藤: では、法華経はどうかと言いますと、方便品の諸法実相の文によって、仏界と九界が同じく十如実相の当体であると明かされました。そこで大聖人は迹門を「因果同性の宗」(御書 p871)と位置づけられています。
しかし迹門では、釈尊自身が“過去世に歴劫修行して、今世で悟りを開いた”という立場は爾前経と同じままです。

斉藤: つまり、仏界と九界が「同性」であるとは言っても、この両者が「釈尊の一心に即して」どのような関係にあるのかは、迹門では、はっきりと説明されていません。

須田: それが本門に入ると、いわば“九界を離れない仏”こそ、釈尊の真実の境涯(本地)であると明かしたわけですね。