投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月31日(月)06時34分19秒     通報
■ 「十界本有の仏」

斉藤: 「厭離断九」の仏ではなくて、十界の生命がもともと具わっている(本有)のが、寿量品で明かされた仏です。
「寿量品の意は十界本有と談ぜり」(御書 p834)とも仰せです。

名誉会長: そう。寿量品の仏は「十界本有の仏」(御書 p1506)なのです。仏界だけではなく、菩薩も声聞・縁覚も、また地獄・餓鬼・畜生の境涯もことごとく、“もともと”具えている仏です。あるとき突如として仏になったのではないし、仏になった途端に九界の生命がなくなってしまったのでもない。
しかも、この十界とは、十法界ともいう。法界とは、いわば全宇宙のことです。十界という全宇宙が本来、大生命体であり、巨大な仏なのです。無始無終で慈悲の活動を続けているのです。
だからこそ、十界のどの衆生であっても、その仏と一体です。一体だと「自覚」すれば仏なのです。一切衆生に、そう「自覚」させるために、仏法は存在する。ところが人々は、小我に執着して、狭い心のままで苦しんでいる。その無明を叩き破って、久遠元初の大生命の太陽を昇らせるための法華経なのです。
「十界本有の仏」ですから、寿量品で「本地」が明かされたのは釈尊だけではない。十界の衆生すべての本地を示そうとしているのです。
「我実に成仏してより已来無量無辺なり」という経文の「我」とは、一往は釈尊のことだが、再往は十界の一切衆生が「我」なのです。この自分が永遠の仏なのです。

須田: それで大聖人は、「御義口伝」で、こう言われているのですね。「我とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり」(御書 p753)。
■ 始成は「今世論」、久成は「永遠論」

名誉会長: 「我」 —- 「自分自身」をどうとらえるか。古今の哲学の根本問題であり、人生の究極の課題です。ある人は、「自分」を何年何月何日に、誰の子どもとして生まれ —- と、「今世だけ」の目で見ている。また未来も「死ぬまでがすべて」と思っている。
かつて戸田先生とご一緒に、仙台方面に指導に行ったことがある。汽車の中だって勉強です。「百六箇抄」の勉強をした。そこで「始成正覚」と「久遠実成」について、戸田先生にうかがった。
戸田先生曰く「始成とは、いわば今世論である。何でも今世限りで考える」と。夫婦になるのも今世だけの縁、信心したのも今世だけ、人間として生まれて死んでいくのも今世だけ、親子兄弟の縁も今世だけ、すべて今世だけで考えていくのが「始成」の思想である、と。その思想が個人においても、社会においても、世界においても、不幸をもたらしている。
すべて今世限りであれば、つきつめて言えば、「この世界を面白おかしく暮らして、行き詰まったら、こっそり悪いことでも何でもやり、どうにもならなくなれば死ねばいい」となりかねない。事実、そういう日本、世界になっています。
一方、「久遠実成とは永遠論である」と。夫婦になったのも過去の縁、信心したのも偶然にしたのではない。
過去において、法華経に縁していた。根本的には地涌の菩薩であった。
ゆえに今世で妙法を信受できた。未来もまた同じである。同志も永遠の同志である。
宇宙には何十億以上、無数の星がある。今世が終われば、また自在にそれらの星に生まれることもできる。そこで人々を救っていくのです。
人類も、永遠に生命は続いていくのです。そうわかれば核爆弾なんかつくるのが、どれほどの罪業かわかる。永遠に生命が続いていくのだから、戦争など考えずに、もっと仲良く、励まし合い、助け合い、力を合わせて、平和で幸福な生活をっくろう —- という考えになっていく。
全人類が仏なのだから、「殺人」などということは、もう考えられなくなる。生きとし生けるものに仏性があるのだから、無益な環境破壊なんかできなくなる。この心を教えていくのが法華経です。

斉藤: 法華経こそ、根本的な「平和のメッセージ」なのですね。なかんずく寿量品が、人類の境涯を引き上げていくカギですね。
■ 目先のことにとらわれるな

遠藤: 「始成」と「久成(久遠実成)」というのは、信心の面からも言えると思います。はじめは、ほとんどの人が、病気とか家庭や個人の悩みで信仰を始めたわけです。

須田: 確かに、はじめから「久遠の使命を感じて信仰した」という人は、あまりいません(笑い)。

遠藤: それが、悩みを乗り越えて確信をつかみ、行学が進むことによって、だんだんと、自分が過去に広宣流布を誓って今世に生まれてきたんだと、信じられるようになってきます。これが「久成論」に通じるのではないでしょうか。

名誉会長: その直りです。ただし、観念でわかるのと、実践でわかるのとは天地雲泥の違いがある。
ご飯を食べるのに、米と水の分量、燃料の用意など、理論はわかったとしても、わかっただけで、ご飯が食べられるわけではない。まったく別問題です。たとえ理論で法華経がわかったといっても、広宣流布の行動がなければ、何にもならない。いな、行動しないのは、仏法の真髄が、ちっともわかっていない証拠なのです。
反対に、難しいことはわからなくても、日夜、広宣流布のため、妙法のため、人のために奔走しておられる学会員は、理論を知ると知らざるとにかかわらず、生命の奥底から「無始の仏界」が涌現してくる。何ともいえない歓喜と生命力、勇気と智慧が、ぐーっとわいてくる。生命に染み通り、染みこんでくる。相の上でも、光を放ってくる。福徳に満ちてくる。
その事実の姿が、最高に尊い。また、そこに寿量品の「永遠の大生命の世界」が顕れているのです。それが本当の「不死の境地」なのです。
目先のことでは、いけない。目先は「始成」論です。目先のことにとらわれず、永遠と宇宙を見つめながら生きるのです。その上での今世観が大事です。永遠の上から見て、今世が一番大事なのです。
今世は短い。永遠から見れば一瞬です。ゆえに今世を修行し抜いて、仏界の生命を打ち固めておくことです。そうすれば、永遠に仏の境涯が続くのです。だから今を頑張りなさいと言うのです。