投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月30日(日)11時54分4秒     通報
■ 無始ゆえに「因果倶時」

名誉会長: ここでポイントとなる「無始の仏界」「無始の九界」とは、それぞれ、寿量品の経文ではどこに当たるだろうか。

遠藤: まず「無始の仏界」とは、「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり —- 」(法華経 p496)です。仏に成ってから無量の時間が経っているという、まさに久遠実成の文です。

須田: また、「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祗劫なり。常住にして滅せず」(法華経 p500)も同じ趣旨ですね。

斉藤: 大聖人は、これらの経文から、仏の生命を「無始」と言われています。

遠藤: 「無始の九界」のほうは、「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり —- 」(同)です。九界(菩薩界)の生命も、永遠に続いているのだ、という経文です。

名誉会長: これも一気に、「無始」の境地を言われている。「九界も無始の仏界に具し」 —- 突然に現れた仏界ではない。本有の仏界です。
「仏界も無始の九界に備りて」 —- 突然に現れた九界でもなければ、いつか消えてなくなる九界でもない。仏界とともに永遠の九界である。こういう「十界(諸法)の真実の姿(実相)」を、如実知見(実の如く知見する)するのが寿量品です。
「無始」でなければ「本有常住」ではない。「本無今有(本は無く、今は有る)」になってしまう。まさに根なし草です。この「無始の仏界」「無始の九界」が明かされてこそ、初めて九界と仏界が“即”することになるのです。因(九界)と果(仏界)が因果倶時になるからです。それでこそ真の十界互具です。

須田: こういうことでしょうか。始成正覚では、仏界も歴劫修行の果てに初めて獲得されるものですから、「本無今有」です。因果でいえば、先に仏因(九界)があって後に仏果(仏界)があるという「因果異時」です。
それでは、確かに、仏果を得るまでの生命には九界しかなく、九界“即”仏界ではない。仏果を得てからは仏界しかなく、仏界“即”九界ではない。

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如来寿量品から
「是の如く、我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祗劫なり。常住にして滅せず。諸の善男子、我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」(法華経 p500)

このように、私(釈尊)が成仏してからこれまで、実に久遠の時が経過している。その寿命は無量阿僧祗劫(五百塵点劫)という長い時間であり、この世界に常住して滅することがない。善男子たちよ。私が、もと菩薩の道を実践して成就したところの寿命は、今なお尽きていない。さらに、先に述べた五百塵点劫に倍して続くであろう。
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名誉会長: そう。それでは真の十界互具にならない。十界互具にならなければ一念三千にならない。迹門の十界互具・一念三千を「根なし草」「水中の月」と言われたゆえんです。
大聖人は迹門の十界互具を「始覚の十界互具」、本門の十界互具を「本覚本有の十界互具」と呼ばれて、根本的に違うとされている。そのポイントは、無始無終の久遠の本仏を知るか否かにある。

遠藤: 始覚と本覚について「十法界事」に、こうあります。「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや」(御書 p421)。
所化(教化されるところの弟子)の大衆も、能化(教化するところの師)の仏も、「本無今有」の根なし草である。ともに「無始無終の十界互具」という真実から隔てられているということですね。

斉藤: 続いて「当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し」(御書 p421)。

名誉会長: うん。大事なところです。

斉藤: 四教(蔵教・通教・別教・円教)で説かれる仏が、仏になったというのは、一応、迹門までの話であって、実は「始覚」「本無今有」の根なし草の仏である。ゆえに「無始無終の義」もなく「無始の本仏」を知らない。仏の生命が色心ともに本有常住であることも知らないという破折です。