投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月30日(日)08時51分18秒     通報
■ なぜ迹門は“根なし草”なのか?

須田: そう聞くと、一念三千はすでに迹門で完璧に出来上がっているようにも思えます。なぜ、釈尊自身が発迹顕本しなければ一念三千は「根なし草」なのでしょうか。それは「迹門では二乗作仏によって九界即仏界が明かされた。しかし、まだ仏界即九界の側面が明かされていない」ということでしょうか。
大聖人が「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(御書 p189)と言われているように、一念三千の中核は「十界互具」です。しかし、九界即仏界と仏界即九界の両面が明かされないと十界互具にはなりません。始成正覚のままだと、凡夫(九界)の釈尊が十九歳で出家して、仏道修行して仏になったというのは、いわば九界即仏界の側面だけです。そこで仏界即九界を顕すために発迹顕本した —- 。

遠藤: そうも言えるかもしれませんが、理論上は迹門の諸法実相の説法で、一応、十界互具は成立しているのではないでしょうか。十界のすべてが妙法の当体として平等であり一体であるということですから、九界に仏界が具しているのはもちろん、仏界にも九界が具しているということになります。
九界の衆生を成仏させることが眼目ですから、迹門では二乗作仏 —- つまり九界即仏界が表になっているわけです。ですから「理論」だけであった仏界即九界を、釈尊の「体験」として、事実の上で語り、証明したところに発迹顕本の一つの意味があったのではないでしょうか。

名誉会長: みんなの意見が分かれるくらい、難しい(笑い)。案外、はっきりしていない点です。確かに諸法実相の説法は、「九界即仏界」「仏界即九界」という生命の真実の世界を開くカギになった。
しかし、それを説いている釈尊が始成正覚のままだと、この諸法実相の説法と「大きな矛盾」が出てくるのです。いいかえれば、諸法実相の説法は、無始無終の仏の「大いなる生命の世界」を、まっすぐに指向している。釈尊が師とした根源の仏の世界を指向している。つまり、「久遠の妙法」即「久遠の仏」の世界を、ほのかに説いたのが方便品の説法なのです。

斉藤: ということは、それを説いている釈尊が始成正覚のままでは、「説かれた法」と「説いた人」が一致しないわけですね。一致するためには、諸法実相が指向する「久遠の仏」の世界を示すしかない。
つまり、発迹顕本は、諸法実相の必然の帰結であり、諸法実相を実証するものであったということですね。

名誉会長: だからこそ舎利弗は、諸法実相の説法を聞いて、直ちに、それが指向している釈尊の「本地」を悟ったのです。それは自分の本地を思い出すことでもあった。その「本地」の仏のことを、大聖人は「諸法実相の仏」(御書 p 714)と呼ばれています。
もっと明快にするために、ここで「開目抄」に戻って、発迹顕本についての大聖人の御指南を拝していこう。
■ 「無始の仏界」「無始の九界」

遠藤: はい。大聖人は次のように仰せです。「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」(御書 p197)。
ここでいう「十界の因果」とは、成仏の原因と結果 —- 仏因・仏果のことです。
つまり、九界の修行(因)によって、仏界の悟り(果)を得るという成仏の“軌道”といえます。しかし、同じ「十界の因果」でも、発迹顕本する前と後では、まったく違うということですね。

須田: 発迹顕本し、始成正覚の立場が否定されたことによって、まず「四教の果」が打ち破られたと。
「四教の果」とは、それまでの蔵教・通教・別教・円教の四教、つまり爾前・迹門の教えで説き示されてきた種々の成仏のことです。これらの「仏果」は全部、始成正覚を前提にしています。それが法華経本門に来て、根本的に覆された。

遠藤: 「本当の仏の境涯とは、そんなものではない!」と、釈尊自身がそれまでの成仏観を否定したわけですね。

斉藤: また、そのことによって「四教の因」を破ったことになると仰せです。結果としての仏の境涯を否定したのですから、それに至ることを目指した因 —- 修行も、本物ではなかったということになります。こうして、本門では、爾前迹門の十界の因果が全部、否定されてしまいました。

遠藤: 大変な舞台の転換ですね。

斉藤: そこで、今までの因果を打ち破って根本の仏因と仏果 —- 「本因本果」が明かされるわけです。その内容について、「開目抄」では続いてこう仰せです。
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(御書 p197)
寿量品の発迹顕本によって、「無始の仏界」「無始の九界」が互具している(互いに具している)実相が明らかになった。それによって真の十界互具・百界千如・一念三千が確立された、と。

須田: 「無始」とは文字通り「始めがない」ということですから、「永遠」ということですね。これに対して「始めがある」のは「有始」です。始成正覚は文字通り「始めて成ずる」ですから「有始」になります。