投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 8月29日(土)19時26分43秒     通報
創価学会において、創価三代の指導は羅針盤である。もしも中心者(船頭)が羅針盤の示す方向とは違った方向に進もうとしたら、諌めるのは当たり前である。中心者の我見や思い込みによって道を誤ってしまったら、広宣流布そのものが破壊されてしまうからだ。それを防ぐのが一人ひとりの戦いであり、従順で良しとするような時代ではない。

54年は、組織に従順な人間たちが、結果的に師を亡き者にしようとした歴史である。従順の恐ろしさは、思考が停止され、回りと同じような行動を取ることを是とし、組織無謬論へと堕していくことである。組織の決定が最優先事項であり、それが正しいか正しくないかは関係なくなる。その根底にあるのは「仕方がない」であり、「おかしい」と考える思考力がなくなっていく。54年もまた、一人ひとりの思考力の欠如であり、それが取り返しのつかない事態を招いたからこそ、「弟子の裏切り」の歴史として刻印されたわけです。

創価学会の人材育成は、従順な羊を育てたいのか、それとも一人立つ獅子を育てたいのか。従順と団結は似て非なるもので、団結は獅子でなければ成り立たない。広宣流布を自覚した一人立つ獅子が、責任をもって推進していくものであり、頭脳も体もフル回転である。そこには馴れ合いなど必要はなく、だからこそ羅針盤とはずれた方向に行くことに対して、厳しく指摘する。これ、責任感である。一方、従順で惰弱な羊は、「中心者に従うことを第一」とし、羅針盤通りかは二の次である。これを団結と勘違いするところに従順の従順たる所以がある。

従順と団結をはき違えた人間は、一人立つ獅子の足を引っ張る存在となる。従順は「組織信心」としてあらわれ、物を考える人間を疎ましく思うようになる。従順は楽であり、中心者が間違いがなければそれでよいが、今はもはや師が指揮を執る時代から、弟子自らが指揮を執る時代へと移行している。それが「原田会長を中心に」ということであり、だからこそ、獅子が必要なのである。中心者が羅針盤と違う方向へと舵を切り、そこに諌める獅子がいなかったならば全滅である。

創価三代の会長は獅子です。羊ではダメであるどころか、広宣流布を破壊してしまうことが判明したのが54年です。従順な羊の信心から、団結の獅子の信心へと深化させていかなければならない。このことがわからないと、いつまで経っても中心者への諫めが、「団結を乱す」「組織を錯乱させる」ということにすり替わり、伝わらない状況が作られる。人は勝手なものであり、レッテルを張る生き物です。真意を理解しようとする「聴く力」が研ぎ澄まされていないと見誤る。

創価三代の獅子の信心に連なる道が「師弟不二」であり、そこにこだわり、根幹としているのが創価学会でしょう。それを学会精神ともいいます。誰が獅子で、誰が羊なのか、あるいは鼠もいるかもしれません。中心者が羊や鼠であったら最悪である。羅針盤の示す方向と、どんどん遠ざかる危険があるからだ。従順な人間は信じ切ってしまうので「危険」という発想がもてない。しかし、考える獅子はそれを察知できる。羊と獅子のどっちが学会を護ることになるかは、言うまでもないでしょう。

羊に獅子を育てることはできない。従順な人間は従順な人間を求めるものである。創価学会の人材城において、今、求められるのは獅子である。獅子の人材群の中に「完璧な団結」も存在する。団結という名の「従順」がまかり通りがちですが、底が浅いと言わざるを得ない。底が浅ければ何も響かない。そこには信心の歓喜と感動が湧く道理はないのである。