投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月28日(金)17時21分43秒     通報
須田: 問題は、この大乗仏教運動によって、仏教の源である釈尊をかえって軽んじる結果に陥ってしまったことではないでしょうか。代わりに、他の架空の仏を“神”のように崇めてしまつた —- 。それは結局、民衆自身の内なる「法」即「仏」を開く道を閉ざすことになったわけです。

遠藤: しかも、こうした仏が説かれると、どうしても民衆自身の内発的な力を重視する方向よりも、「仏の慈悲にすがって救われよう」という心理を助長させます。日本の阿弥陀信仰の「他力本願」はその典型ですね。

名誉会長: 要するに、小乗も大乗も、釈尊が言い遺した「法と自己をよりどころとせよ」という心と正反対になってしまった。
あえて類型化していえば、小乗教では、「法」を求めるという側面は強調したが、「仏」をいたずらに凡夫から引き離してしまった。
大乗教では、「仏」と人間のかかわりを復興させようと努めたが、民衆自身が「法」を体得するところまでは開かれなかった。どちらも十分ではなかった。そこに、寿量品の「発迹顕本」の意義がある。

遠藤: 仏教のみならず、宗教には人間をしばしばドグマや権威に隷属させようとする宿命的な傾向がありますね。

名誉会長: そうだね。宗教の“非人間化”や“現実からの遊離”に抵抗して、原点たる「人間」へと打ち戻し、また打ち戻し続けていくのが法華経の精神です。

須田: 「如説修行抄」の「権実二教のいくさを起し」(御書 p502)、「今に至るまで軍やむ事なし」(同)との御聖訓を思い起こします。不断の精神闘争のなかにのみ、仏法の正統があるのですね。

斉藤: 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大日如来を崇める真言宗に対しても、「大日如来は、どのような人を父母として、どのような国に出現して大日経をお説きになったのか」(御書 p1355、趣意)と破折されています。

遠藤: 現実に生きていた「人間・釈尊」をないがしろにして、父母もわからない「架空の仏」をありがたがる本末転倒ぶりを喝破された。「釈尊に帰れ!」とは「人間に帰れ」ということだったのですね。

須田: 徹底して、「仏教を人間化する」戦いであられた —- 。

名誉会長: それほど、宗教というものは、人間を離れよう、離れようとする傾向がある。そうなると宗教は、一種の権力になってしまう。

須田: 本当に怖いことですね。

斉藤: その要因はいろいろ考えられると思いますが、一つは聖職者の堕落、一つは教団組織の硬直化、一つは信仰心の惰性 —- が挙げられるのではないでしょうか。それらが重なり合って、宗教が民衆からかけ離れて、権威主義化してしまう。

須田: 日顕宗などは、その全部が積もり積もった典型ですね。放蕩法主を日蓮大聖人と一体不二だなどと言っているのですから、「人間の生き方」など、まったく問題にされていません。