投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月28日(金)12時56分2秒     通報
■ “仏の神格化”が“仏教の非人間化”に

斉藤: 現実に「仏」と触れ合うことができないために、時を経るにつれて、“偉大な仏”という観念だけが独り歩きをしてしまった。仏の悟りを得たのは釈尊一人であって、我々は仏にはなれっこないのだ —- と。

遠藤: 目指す悟りは、声聞の最高の悟り(阿羅漢果)であり、仏の境涯には到底なれないとしたのですね。

須田: 戒律も次第に煩瑣になっていきました。教団を維持するという要請から、僧侶たちが寺院を神秘化したり、聖職者を権威づける教えをあえて説いたという事実も指摘されています。こうしたことが相まって、ますます衆生には到達できない高みへと仏を祭り上げてしまったわけですね。

名誉会長: それでも、釈尊の直弟子がいた間はまだよかった。釈尊滅後の百年前後に仏典の結集が行われたといわれているが、このころには、すでに釈尊の神格化は相当、進んでいたのではないだろうか。結集には、いよいよ遠ざかる「人間・釈尊」の記憶をたぐり寄せようという危機感が、背景のひとつにあったかもしれない。

斉藤: 漢訳経典で「世尊」と訳されているのは、サンスクリット語(古代インドの文章語)の「バガヴァット」ですが、もともとは弟子が師に対して「先生」と呼びかける言葉だったそうです。ところが、釈尊は次第に神格化されるにつれて、「超神」とか「神々の神」とまで呼ばれるようになります。

須田: それが、大乗仏教になると、民衆を救う「救済者」としての人格的な仏が強調されていきます。

遠藤: ただし、先ほども指摘があったように、その仏とは、釈尊を離れた別の仏です。阿弥陀如来とか、毘盧遮那仏とか、大日如来とか —- 。ただ、いずれも、慈悲深い人格的な仏であり、しかも永遠に民衆を救済し続ける絶対者として説かれています。

名誉会長: それらは、与えて言えば、釈尊が師とした「永遠の法」即「永遠の仏陀」に迫ろうとした結果と言えるでしょう。その限りでは、「久遠の本仏」の仏身を部分的に表現していると見ることもできる。

須田: 法身・報身・応身の三身論で言えば、たとえば、大日如来は「法身」、阿弥陀如来は「報身」にあたるとされます。別の説もありますが —- 。
これに対して、寿量品の「久遠の釈尊」は無作三身の仏ですから、他の諸仏は、部分観になります。

斉藤:  大聖人が、爾前の経経について「皆己心の法を片端片端説きて候なり」(御書 p1473)と位置づけられていますが、これは仏身についてもあてはまるかもしれません。三身については、また改めて論じていただきたいと思います。

遠藤: 「色相荘厳の仏」といいますが、理想化された仏ばかりが説かれるようになってしまったのですね。

名誉会長: 一面では、これらは仏を渇仰してやまない人々の信仰心の現れであり、それに応えたものでしょう。
日寛上人も「世情に随順して色相を荘厳し」と述べられています。