投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月27日(木)08時27分19秒     通報
■ なぜ仏教はインドで滅びたか

名誉会長: 大切なテーマです。実は「法華経」と「寿量品」の肝心要も師弟不二にある。それについては、少しずつ論じることにして、思い出すのは、インドのネルー初代首相の仏教論です。
「なぜ仏教がインドで滅びてしまったのか」。これを(フランスの文学者)アンドレ・マルロー氏との対話で語ったという。
マルロー氏とは私も対談集(『人間革命と人間の条件』潮出版社)を出しましたが、“常に問い続ける”あの眼光が忘れられない。全身から巨大な“問い”を発散しているような迫力でした。求道者だった。
また仏教に強い関心をもっておられた。ヨーロッパに将来、仏教を基盤とする新しい文明が生まれる可能性も否定できないと言っておられた。
氏とネルー首相との対話については、ドイッでスピーチしたこともある(1994年5月24日、ドイッ最高会議で。『創価のルネサンス』第72巻 所収)。
ネルー首相によれば、「そもそも仏陀の天才は、あくまでも仏陀が人間であるという事実にもとづいていた。人類の生んだもっとも深遠なる思想のひとつ、剛毅な精神、このうえなく崇高な惻隠の情(注=慈愛)、さらには、神々にたいしてまっこうからこれと向きあった告訴者の態度」(アンドレ・マルロー『反回想録』竹本忠雄訳、新潮社)と。

須田: 神々に対する態度という点は、日蓮大聖人が八幡大菩薩を強い調子で叱ったり、諌暁された姿を思い出します。

名誉会長: そういう素晴らしい「仏の人格」が人々の心をとらえた。しかし、釈尊の死後、「仏陀の神格化が行なわれたとたん、仏陀その人はこの神々と同列にくわえられ、姿を没してしまった」(竹本忠雄訳、前掲書) —- これがネルー首相の洞察であった。

斉藤: 確かにインドでは今、仏教は極めて少数の人しか信仰していません。釈尊も尊敬はされていますが、あくまでヒンドゥー教の「神々のひとり」と位置づけての尊敬のようです。問題は、釈尊を神格化したとたん、釈尊が示した「人間としての道」が消えてしまったということです。

名誉会長: そう。仏教は本来、「人生をどう生きるか」を教えている。人生の正しい「道」を歩まんとする人がいて、師を求め、師がその心に応じて、師弟の関係が生まれる。ところが、仏が人間ではなく“神様”になってしまったら、「師弟の道」は成り立たない。

須田: 自分も師匠と同じ道を行けば、師匠と同じ境涯になれる —- というのが「師弟の道」の前提です。師匠が“神様”になってしまったら、「自分たちも同じ道を行こう」というエネルギーはなくなりますね。

斉藤: 小乗仏教においても、しだいに釈尊を神格化し、自分たちは声聞としての悟り(阿羅漢果)を得られればいいとしました。大乗仏教(法華経以外の権大乗教)においては、釈尊以外の阿弥陀仏とか大日如来とか毘盧遮那仏とかの諸仏が説かれます。
しかし、これらは現実の人間とはかけ離れた存在であり、その「救済」にあずかろうとする面が強く、師匠と仰ぐ存在ではありません。どちらにも「師弟の道」がなくなっています。

名誉会長: 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の生き方」から離れてしまった。「師弟の道」がなくなった。その結果は、仏教の堕落であり、権威化です。

遠藤: 確かに日顕宗を見ても、「人間の生き方」としての仏法など、皆無です。
自分たちの堕落をごまかす「権威」として、仏法を利用しているだけです。まさに“法滅”です。

斉藤: 本来、日蓮大聖人が、そして釈尊が三障四魔と戦いながら、民衆の中へ中へと分け入って、正法を広宣流布された。その「同じ道」 に続かなければ、仏法の生命は絶たれてしまう。「人間・釈尊でなくなったから仏教が滅びた」というネルー首相の慧眼は、さすがだと思います。