投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月27日(木)12時38分38秒     通報
■ 始成正覚を百八十度、転換

名誉会長: さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕本」にこそ、「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセージが込められているのです。ここでは、このことを少し考えてみよう。

須田: 「発迹顕本」がなぜ、「人間・釈尊に帰れ」なのでしょうか。釈尊が自分は「久遠以来の仏」であったと明かすわけですから、むしろ反対に、凡夫を離れた超越的な仏のような感じすらしますが —- 。

遠藤: 事実、古来、法華経の「久遠の仏」を超越神のようにとってきた傾向もありますね。しかし、法華経の真髄が、そんなものであるはずがありません。

名誉会長: まず発迹顕本の基本的な意味を確認してみよう。教学を真剣に勉強されている方々にも、よい復習になると思う。

遠藤: はい。寿量品では、次のように説かれています。
「一切世間の天、人、及び阿修羅は皆、『今の釈迦牟尼仏は釈迦族の宮城を出て、伽耶の市街から遠くないところを道場として坐して、阿耨多羅三藐三菩提、すなわち無上の覚りを得て仏となられた』と思っている。しかし、実は私が成仏してから今に至るまで、無量無辺百千万億那由佗劫という、長遠の時が経っているのだ」(法華経 p496、趣意)と。

須田: 釈尊は、十九歳で出家して、三十歳の時、伽耶城近くの菩提樹の下で成仏したとされています。
年齢については諸説がありますが、今世において釈尊が始めて正覚(仏の悟り)を成じたという点については、共通しています。これを「始成正覚(始めて正覚を成ず)」と言います。法華経以前の爾前経および法華経迹門で説かれる釈尊は、いずれもこの「始成正覚」の仏という立場です。

遠藤: それが寿量品では百八十度、変わります。今世で仏になったのではなく、五百塵点劫という久遠の昔から仏であったと。
久遠のはるか昔に成仏した釈尊は、「久遠実成の釈尊」として、「始成正覚の釈尊」と区別されます。久遠実成の釈尊は、久遠の本地を顕したという意味で「久遠の本仏」とされます。「本」とは、本地・本源・本体といった意味があります。
これに対して、始成正覚の釈尊は、その久遠の本仏が衆生を救うために、衆生に応じて出現した「垂迹の仏」です。「迹」とは、本体に対する影(映像)であり、仮の姿という意味です。

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如来寿量品から
「我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祗なり
常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり
衆生を度せんが為の故に 方便して捏槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」(法華経 p506)

私(釈尊)が仏に成ることを得て以来、これまで経過した多くの劫の数は無量百千万億載阿僧祗である。(その間)常に法を説き、無数億という数えきれないほど多くの衆生を教化して、仏道に導き入れてきた。そのようにして今に至るまで数限りない劫を経てきているのである。(仏は)衆生を救おうとする故に、方便を用いて捏槃の姿を現ずるのである。しかし、実は入滅していない。常にここ(娑婆世界)に住して法を説いているのである。
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斉藤: いわゆる「迹仏」ですね。本仏と迹仏の関係は、「天の月」と「池の月」に譬えられています。実体の月と、池の水に映った月のような違いがある、と。

須田: 法華経の前半十四品を迹門、後半十四品を本門と立て分けるのも、この「迹仏」と「本仏」の違いに基づくものですね。

名誉会長: 日蓮大聖人は、本門と迹門の違いについて「水火天地の違目」(御書 p996)であるとされている。水と火、天と地ほども違う、と。「爾前経と法華経迹門との違い」よりも、はるかに大きな違いがあることを強調されています。それは、この発迹顕本があるからです。