投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月26日(水)13時48分17秒     通報
■ 未来の人々を救うメッセージ

遠藤: 寿量品のあらましですが、久遠の釈尊の“過去の常住”が説かれたところまで述べてきました。寿量品では次に、仏が“未来においても常住する”ことが明かされていきます。すなわち、「私が、もと菩薩の道を実践して成就した寿命は、今なお尽きていない。更に五百塵点劫に倍して続くであろう」(法華経 p500、趣意)と述べられます。

斉藤: 未来に向けてのメッセージですね。「衆生を救う」という観点から言えば、過去よりも、むしろ未来の方に寿量品の本意があります。大聖人は、寿量品はもっぱら釈尊滅後の衆生のため、なかんずく末法のために説かれたと仰せです。
ただ、過去を説いているのは、“成仏の本源に遡る”意味があるのではないでしょうか。

名誉会長: そうかもしれない。仏の生命の根源の姿を示してこそ、生死に苦しむ未来の人々を救えるからです。
その一番の本源を示唆するのが、今の「我本行菩薩道(我もと菩薩の道を行じて)」の文だね。

斉藤: 久遠における釈尊の成仏には、“成仏した本因”があったということです。ここを深く究めると、大聖人の文底仏法に入ってきます。

須田: 大聖人は「開目抄」で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(御書 p189)と仰せられています。では、寿量品のどの文の底なのか —- 古来、いろいろと論議されてきました。日寛上人は、この「我本行菩薩道」の文の底に沈められていると明快に述べられています。

名誉会長: そうだね。「永遠の大生命」を自覚した仏の不可思議な境地を、天台は「一念三千」として表現した。その一念三千も、寿量品を魂とします。
ただ、寿量品では、釈尊の成仏後(本果)の不可思議な姿をもって永遠の生命を示した。これが「本果妙」です。しかし問題は、現実の人間がどうしたら永遠の大生命を自覚できるかです。それを説くのが大聖人の「本因妙」の仏法です。
その点についても、後に掘り下げる機会があるでしょう。

須田: ところで、仏が常住不滅であり、未来も常住するのであれば、「仏は、なぜ入滅するのか」という問題が、生じてきます。
経文では“もし仏が入滅しなければ、衆生は、仏にいつでも会えると思い、仏を求め、尊敬する心をもとうとせず、怠慢になってしまう。そのために、仏はあえて方便として入滅する”と説いています。
「方便現捏槃(方便して捏槃を現ず)」の教えです。

斉藤: これについても、また論じていただくことになると思います。ともあれ、寿量品は、一切経の魂です。仏法とは何か。何を説いたのか。その答えが寿量品にあります。

名誉会長: そう。日蓮大聖人は「一切経の中に、この寿量品がなかったならば、天に太陽と月がないようなものであり、国に大王がなく、山河に宝珠がなく、人に魂がないようなものである」(御書 p214ページ、趣意)と言われている。
寿量品を学ぶことは、仏法の真髄を学ぶことであり、生命の真髄を学ぶことであり、自分自身の「真実の姿」を学ぶことなのです。それがわからなければ、何をやっても、根本は無明です。迷いであり、苦しみです。まさに“天に太陽と月がない”暗黒の世界です。そこに“希望の太陽”を昇らせるのが寿量品です。それを「人間革命」という。

須田: そう言えば、冒頭に話の出たキューブラー・ロス女史が、こう書いていました。
「自分自身を癒さないかぎり、世の中を癒すことはできません」(鈴木晶訳、前掲書)
「手遅れになる前に、この世界を癒さなくてはなりません。そして世界を癒すためには、まず自分自身を癒さなくてはならないのです。どうかこのことを胸に刻んでください」(同)と。