2015年8月25日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 8月25日(火)20時46分27秒 通報 末法の「悟り」とは御本尊への「確信」 須田: そういえば、『法華経の智慧 第三巻』で語られた戸田先生の獄中の悟りに関して、読者の方から“私たちも悟れるのでしょうか”という質問を受けました。 名誉会長: 「悟り」というと、前世がわかるとか、未来世が見えるとか、何か神秘的なことを思い浮かべるようだが、決してそうではない。そんなことを軽々しく言う人は、まやかしと思って間違いない。戸田先生は、おっしゃっていた。「末法の悟りとは何か。それは御本尊を信じきるということだ」と。 どんなことがあつても御本尊を疑わない。いちずに信じきっていく。これが「末法の悟り」です。「信心」即「悟り」なんです。例えば、ある人は、家庭のことで悩み、「自分より不幸な人間はいない」と思い、悶々と暮らしていた。そして、周囲を恨み、愚痴ばかりこぼしていた。しかし、信心に目覚め、仏法を学ぶことによって、「不幸の原因は自分にある」ことを知った。そして、自分の人間革命に挑戦し、信心が深まり、境涯が深まるにつれ、見事に悩みを解決することができた。 その体験を通して、「自分の一念が変われば一切が変わる」ことをつかんだ。一念三千です。これも立派な「悟り」ではないだろうか。 須田: そのような例は実際にたくさんあります。無数といっていいかも知れません。 名誉会長: もちろん戸田先生には戸田先生の不可思議の境地があられた。しかし、それは、だれよりも強い「御本尊への絶対の確信」と一体だったのです。大確信そのものだったのです。 ■ 仏の眼で見た“生死の本質”とは 遠藤: 寿量品の話の続きです。久遠の仏がさまざまな姿を現し、衆生を導いていけるのは、仏が「三界の姿をありのままに知見している」(如来如実知見)からだと説かれています。 斉藤: 三界とは、迷いの衆生が生きる現実世界のことですね。 名誉会長: 「如来如実知見」 —- あらゆるものの本当の姿を見抜く仏の智慧です。この智慧があるゆえに、衆生の機根に応じて自在に教えを説けるのです。さあ、そこで、その智慧の眼から見た生死の本質とは何か。それが次に述べられている。 斉藤: はい。「生死の、若しは退、若しは出有ること無く、亦在世、及び滅度の者無し」(法華経 p499)の文ですね。三界には生も死もない。退くことも、現れることもない。したがって、世に在る者と滅度した者の区別もない、と。 須田: 生命の常住を明かしたものと思います。 私たちの常識では、生はこの世に現れることであり、死はそこから退くこととしか見えないわけですが、仏の眼から見れば、生命は永遠常住であり、生死はその永遠の生命の変化相でしかないわけです。 名誉会長: そう。ただし、“生と死はない”というのは、生命の常住の側面を強調しているわけです。その面だけにとらわれると、ある意味で抽象論になってしまう。“生と死がある”のは人生の現実だからです。その現実から逃避しては観念論になる。 大聖人は、もう一歩深く、「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(御書 p p724)と仰せです。 妙法に根ざした生と死は、「法性の大地」すなわち永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのです。ドラマを演じていると思えば楽しいでしょう。生と死が苦しみでなく、楽しみになる。「生も歓喜」「死も歓喜」となっていくのです。 妙法は、生死の苦しみを乗り越える大良薬です。寿量品に「是好良薬(是の好き良薬)」とあります。 法のため、友のために —- くる日もくる日も、心を使い、体を使いきっている学会の同志は、永遠にわたる「生命の凱歌」の軌道を歩んでいるのです。 斉藤: この信心に生き抜けることが、どれほど尊くありがたいかですね。 Tweet