投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月25日(火)13時03分42秒     通報
斉藤: 始成正覚という仮の姿(迹)を発いて、久遠実成という真実の姿(本)を顕したので、これを「発迹顕本」といいますが、その意義については、改めて論じていただきたいと思います。

名誉会長: そうだね。甚深の法門です。久遠元初の問題とも関連してくる。寿量品全体の流れを見たうえで論じたほうがいいでしょう。

須田: 釈尊の成仏がいかに遥かな昔であったか —- それを示す譬えが「五百塵点劫」の譬喩です。五百千万億那由佗阿僧祗という膨大な数の三千大千世界を、すり砕いて細かい塵とします。その塵を持って東のほうへ行き、五百千万億那由佗阿僧祗という数の国を過ぎるごとに、その塵を一粒ずつ落としていきます。ロケットか何かに乗っていくと想像すればいいでしょうか。ともあれ、どんどん東へ行き、この塵をすべて落とし尽くします。

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寿量品から
「汝等諦かに聴け、如来の秘密神通の力を。一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより己来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」(法華経 p496)

(釈尊は菩薩たちに、このように語られた)あなたたちよ。明らかに聴け。如来の秘密、神通の力を。一切の世間の天界、人界および修羅界の衆生は皆、“今の釈迦牟尼仏は、釈迦族の王宮を出て、伽耶の市街から遠くないところにある道場に座して三昧の修行に励み、阿耨多羅三藐三菩提を得られた”と思っている。しかしながら、善男子よ、私は実に成仏してから、無量無辺百千万億那由佗劫を経ているのである。
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遠藤: 那由佗も、阿僧祗も古代インドの数の単位で、ともに十の何十乗という大数です。一説には那由佗は一のあとに零が十一つき(一千億)、阿僧祗は一のあとに零が五十一つく単位(10の51乗)といいます。
三千大千世界は当時の世界観における宇宙を指しています。通り過ぎた国の数は、もはや誰も数えられませんし、想像力の翼も届きません。

須田: そうです。ところが、それだけでは終わりません。驚いたことに、塵を置いた国も、置かなかった国も、すべてまた砕いて塵とするというのです。そして、その一粒の塵を一劫と数えます。劫とは、非常に長い時間の単位です。一説には1600万年くらいともいいます。釈尊の成仏は、こういう測り知れない時間よりも、さらに百千万億那由佗阿僧祗劫も前であったというのです。これが「五百塵点劫」です。

遠藤: 目もくらむような話ですね。

須田: それだけの遥かな昔に釈尊が成仏したことを「久遠実成」というわけです。

斉藤: “その時に成仏した”と説かれているので、「始まり」があるように感じます。そうすると五百塵点劫は、一応、有限な時間のようにも考えられますが、実質的には無限の時間を示そうとしていると思います。

名誉会長: 永遠だね。「永遠」ということを何とか示そうとしている。

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