投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月24日(月)12時41分20秒     通報
■ “自分は勝った”と誇れる人生

遠藤: そう言えば、白血病で亡くなった九歳の少年の、こんな話があります。
末期患者のカウンセリングや、臨死体験の研究で有名なキュープラー・ロス女史が紹介している話です(『「死ぬ瞬間」と臨死体験』鈴木晶訳、読売新聞社)。
彼 —- ジェフィは三歳のときから入退院を繰り返し、体は弱りきっていました。あと二、三週間の命であることが、ロス女史にはわかりました。
ある日、「ぜったいに今日、家に帰りたい」と、ジェフィが言い出します。これは事態が非常に差し迫っているというメッセージでした。ロス女史は、心配する両親を説得し、車で帰宅させることにしました。 ガレージに入り、車から降りると、ジェフィは父親に頼みました。「ぽくの自転車を壁からおろして」。それは三年前に父が買ってくれた、新品の自転車でした。
一生に一度でいいから自転車で近所を回りたい —- それがジェフィの夢だったのです。フラフラして、立っているのがやっとのジェフィでした。
自転車に補助輪をつけてもらうと、ロス女史に言いました。「ここにきて、ママを押さえていて」。お母さんが止めに入らないためです。
言われた通り、ロス女史が母親を押さえ、父親がロス女史を押さえました。そしてジェフィは、近所へ自転車の旅に出発します。
「おとな三人は、たがいの体を押さえ合いながら、感じていました。—- 死が間近に迫った弱々しい子どもが、転んでけがをして血を流す危険をおかしてまでも勝利を味わおうとするのを黙って見守ることが、いかにむずかしいかを。ジェフィを待つている時間は、永遠のように感じられました」

須田: 無事に戻って来られたのですか?

遠藤: はい。こう書かれています。「彼は満面に誇りをたたえて帰ってきました。顔じゅうが輝いていて、まるでオリンピックで金メダルをとった選手みたいでした」。
一週間後、ジェフィは亡くなります。さらにその一週間後、誕生日を迎えた弟が教えてくれました。
実はあの後、ジェフィは両親に内緒で、弟にプレゼントを渡していたのです。「いちばん大事な自転車を直接プレゼントしたい。誕生日まで待つことはできない。そのときには自分はもう生きていないだろう」からと。彼は自分のやり残した仕事をやり遂げたのです。「両親はもちろん嘆き悲しみました。でもそれは重荷としての悲嘆ではありませんでした」「彼らの胸には、ジェフィが自転車で近所を回り、人生最大の勝利に顔を輝かせて帰ってきたという思い出が残りました」。
ロス女史は言います。「すべての人には目的がある」。それを「患者たちとの触れ合いのなかで学んだ」と。彼らは、ただ“助けられる”だけの存在ではない。生命についての大切な何かを“教えてくれる”先生にもなるのだと。

名誉会長: いい話だね。少年は勝って死んだのだね。
吉田松陰だったと思うが、「十歳で死ぬ人にも、十歳の中に春夏秋冬の四季がある。二十歳で死ぬ人にも二十歳の四季がある。三十歳、五十歳、百歳で死ぬ人にも、それぞれの四季がある」と言っている。〈『留魂録』〉
彼は信念を貫いて満二十九歳で処刑されたが、こういう生死観に立って、いささかも動じなかったという。要は、なすべきことをなして死ねるかどうか —- 。「自分は勝った」と誇りをもって死ねるかどうか。
「死」を学ぶことは、「人生をどう生きるか」を学ぶことなのです。フランスの哲学者アランは、哲学の試験に、こんな問題を出した。
“今にも欄干を乗り越えて、飛び込み自殺をしようとしている若い女性がいる。彼女を引き戻して、どんな対話をするか?”
生きるか死ぬかという瀬戸際に、人間として何を語れるのか。そこに真の「哲学」がある。これは特殊な極限状態の問いのようだが、実はそうではない。
「人はなんのために生きるのか」という問いは、いつでも、どこでも、だれにでも問われている根本問題なのです。
■ 「他人の死」から「自分の死」へ

須田: はい。ある精神科医が、自殺未遂の青年に「どうして自殺をしたのか」と聞いたそうです。すると即座に「先生は、どうして生きているのですか?」と切り返されて言葉に窮した、と綴っています。
「これには参った。『死ぬこと』と『生きること』とは、反対のことのように見えて、表裏一体のものである。相手に『死んではいけない』と言える人は、自分の生きざま、生きていることの意義をはっきりと答えることのできる人なのである」(大原健土郎著『生と死の心模様』岩波新書)と。

斉藤: 確かに難しいのは、生と死を“自分の問題”として考えることですね。どんなに、とうとうと人生を論じ、生死の哲学を語っても、心の底で“他人ごと”であっては、何にもなりません。
ある医師は、自分の子どもを亡くして初めて、「生命とは何か」を思い知らされた、と書いています。患者の病気を治すたびに、医師としての誇りに酔っていたが、「自分の子供が死んで、初めて患者の死を考えるようになり、『他人の死』から『自分の死』として考えるようになったとは、罪深さに自分を失いたいと思いました」(河野博臣著『ガンの人間学』弘文堂)と。

遠藤: 胸をえぐる告白ですね。

名誉会長: かけがえのない人を失った —- その体験が、人を人生の深い次元へと進ませる。戸田先生は、入信以前、お嬢さまを亡くされたときの深い悲しみを語っておられた。冷たい遺骸を一晩泣きながら抱いて寝た、と言われていた。
「私は、そのときぐらい世の中に悲しいことはなかったのです」「そこで、もし自分の妻が死んだら —- と私は泣きました。その妻も死にました。もし母親が死んだらと思いました。それは私としても、母親が恋しいです。今度はもう一歩つっこんで、ぼく自身が死んだらどうしようと考えたら、私はからだがふるえてしまいました」。
そして「牢にはいって、少しばかりの経典を読ませてもらって『ああ、よくわかりました』と解決したのですが、死の問題は二十何年間かかりました。子供をなくして泣きすごすと、妻の死も自分自身の死もこわかった。これがようやく解決できたればこそ、戸田は創価学会の会長になったのであります」と。
死が恐ろしい —- 人間である以上、当たり前のことです。戸田先生でさえ、死を眼前にしてこのような苦闘をされている。「死など恐れない」「命など惜しくない」 —- 苦闘もなく、初めからそんな境涯になれるはずがない。死はだれもが怖い。だれもが悲しい。当然です。
その苦しみ、悲しみに打ち勝っていこうとするから、人間として深まるのです。他の人々と「同苦」する心もできていくのです。

遠藤: よくわかります。私自身がそうでした。十二年前、四歳の長男が突然、亡くなりました。気管支肺炎でした。その時は悲しみをこらえるのが精一杯で、頭の中が真っ白という状態でした。
しかし、池田先生をはじめ、同志の皆さんの再三にわたる励ましで、真正面から息子の死という現実に立ち向かえるようになりました。どれほどありがたかったか —- 感謝しても、しきれません。
それからというもの、先生の「必ず意味があるよ」との一言を胸に、真剣に題目を唱えました。御書をひもとき、先生の指導を貪るように学びました。一つ一つが新鮮でした。一つ一つが感動でした。命が洗われるような思いでした。
子どもの死という試練がなければ、信心の深い確信もつかめなかったでしょうし、人の真心も、人生の深さもわからない浅はかな自分になっていたなと、つくづく実感しています。また子どもはもう、再び生まれてきていることを、自分としては確信しています。

名誉会長: 私もそう思う。父子一体です。遠藤君がこうして法華経を語り、永遠の生命を語り、たくさんの人々に希望を送っている。その姿のなかに、息子さんの命は一体で生きている。
生の姿であれ、死の姿であれ、父子一体の功徳を受けきって、楽しんでいるよ。

遠藤: はい。ありがとうございます。