投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月24日(月)19時00分38秒     通報
■ 「永遠の大生命」を我が身に湧現

名誉会長: 人生は長い。晴天の日だけではない。雨の日も、烈風の日もある。しかし何が起ろうと、信心があれば、最後は全部、功徳に変わる。
戸田先生は言われていた。「信心さえあれば、ことごとく功徳なのだよ。信心なくして疑えば、すべて罰だよ」と。
「永遠の生命」を信じて、この一生を生きて生きて生き抜いていくのです。この一生を勝利しきって、その姿でもって「永遠の生命」を証明するのです。それが法華経です。寿量品です。何があろうと、生きて生きて生き抜くのが「寿量品の心」なのです。

斉藤: 寿量品の心とは、言葉だけの「永遠の生命」ということではないのですね。

名誉会長: 大生命力で生き抜くことです。永遠にして宇宙大の「大いなる生命」の実在を明かしたのが寿量品です。その「大いなる生命」を、現昇の我が身のうえに顕していくのが寿量品の実践です。
如来寿量とは「如来の寿命を量る」という意味です。如来の永遠の寿命 —- その大生命力を我が身のうえに涌現するのです。
寿量品が説く「永遠の生命」 —- それは無限の生命力、無限の智慧、無限の慈悲を具えて、生きとし生けるものを支えている宇宙生命それ自体です。それこそが、釈尊の本地であり、あらゆる仏の本体であると明かしているのが寿量品です。「仏とは生命なり」と戸田先生が悟られた通りです。
この「永遠の生命」が、妙法であり、如来であり、法性であり、実相です。十界三千の諸法を貫く宇宙根源の法であり、大聖人はこれを「南無妙法蓮華経」と名づけられた。
生と死も、この「永遠の大生命」の不思議な働きであり、本然のリズムです。生死という現象だけで見れば、生命は無常です。この「生死の苦しみ」「無常の苦しみ」が、人間の一切の苦しみの根源です。釈尊は、このことを徹底して人々に教えたのです。
それは決して“昔話”ではない。現代社会の諸々の苦悩の根底にも、この生死の苦しみが横たわっている。寿量品の「永遠の生命」こそが、この生死の苦しみを癒す「良薬」なのです。

斉藤: はい。生死の苦しみを解決する要法は、ただ寿量品の一品に限ると日蓮大聖人は仰せです。〈御書 p1022〉

名誉会長: 寿量品については、これまで何度も学んだという人も多いと思う。なにしろ毎日、勤行で読誦しているのだし(笑い)。しかし、基本を確認する意味で、そのあらましを、まず、たどってみよう。
■ それまでの教えを覆す「久遠実成」

須田: はい。涌出品で、娑婆世界の大地から無数の立派な菩薩が出現します。この地涌の菩薩たちを「釈尊は一体、いつ、どこで教化してきたのか」と弥勒が質問します。この問いを受けて、寿量品の説法が始まります。

遠藤: 釈尊が菩提樹の下で悟りを開いてから数十年しかたってない。とても、それだけの数の菩薩たちを、仏と同じくらいに立派になるまで教化することはできるはずがない。これが弥勒の疑問ですね。

名誉会長: 弟子たちの素晴らしさを見て、「師匠である釈尊とは、一体、どういう存在なのか? これまで思い込んでいた以上の存在なのではないか?」と思ったんだね。

斉藤: はい。その答えが寿量品の冒頭で説かれる「久遠実成」です。それまでの爾前・迹門では「釈尊は今世で始めて成仏した」と説かれてきました。いわゆる「始成正覚」(始めて正覚を成ず)です。
これを百八十度ひっくり返し、「私は実に成仏してから、無量無辺の時間(無量無辺百千万億那由佗劫)を経ているのである」と明かします。これが「久遠実成」です。

名誉会長: 今世で初めて仏になったのではない。もともと仏だったということだね。

遠藤: 皆、驚いたでしょうね。今までと正反対のことを説いたわけですから。

須田: 「今まで、だまされていたのか」と思う人もいたかもしれません(笑い)。

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