2015年8月24日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 8月24日(月)08時01分17秒 通報 法華経の智慧第四巻 ──────────────────────────────────────── §如来寿量品§ 生きて生きて生き抜くのが「寿量品の心」 ■ 世界的に「生と死の探求」が始まった 斉藤: 最近、「死への準備教育(デス・エデュケーション)」が、きわめて強い注目を集めています。たとえば、「あなたは、あと半年間しか生きられない」と仮定して、「その半年に何をしますか」という課題を出して、考えさせるのです。 また「“人生で、あなたが大切にしているもの”を順番に三つ書いてください」とか、「死」を考えるなかで「生」を見つめ直していくわけです。 遠藤: ヨーロッパ、アメリカでは「死への準備教育」を学校でしているところも多いようです。小学生向けのプログラムもあるそうです。 日本でも、かつてない「高齢化社会を迎えて、「老い」や「死」の問題に光が当てられるようになりました。しかし、まだまだ“自分の問題”として深く考えている人は少ないのではないかと思います。 名誉会長: 人生、何が確実かと言って、「いつかは必ず死ぬ」ことほど確実なことはない。ほかのすべてが“不確か”で、変化、変化している時代にあって、これだけは永遠に“確かな”事実です。 それなのに、一番確実な「死」から人間は目をそらそうとする。確かに「太陽と死は直視できない」かもしれないが、確かな生死観をもたない人生は、根なし草のようなものです。そのままでは、確かな人生を歩むこともできないのは当然でしょう。 須田: 「死」から目をそらすことは、「本当の自分」から目をそらすことに通じると思います。今、自分の前世を知りたがる若者が増えています。 ある精神科医によると、それは「自分は何者なのか」という“ルーッ”を「現在の自分」に見いだせず、「過去の自分」に求めているからではないかというのです(小田晋著『精神科医が明かす 生と死 心の深層』はまの出版)。 名誉会長: そうかもしれない。表面的に見ると、一時の流行のがようにも思えるが、根底には、確かな拠り所を求める心のうめきがあるのではないだろうか。 現代の文明は、「死をタブー視する(ふれてはならないものと見る)文明」と言われてきた。しかし、「死への準備教育」といい、今、世界的には、急速にそれが変わりつつある。人々は、確かな生死観を懸命になつて求めている。 私は、生命探求への熱い鼓動を感じます。 ■ 老いも若きも「生死を学ぶ」仏法運動 須田: まさに「生命の世紀」 —- 二十一世紀への助走が始まった感があります。 名誉会長: 「生と死を学ぶ」という意味で、創価学会の教学運動は、時代を先取りしてきたと言ってよいでしょう。 斉藤: はい。学会は、老いも若きも、日常的に仏法の生死観を勉強してきました。 例えば、1996年の第一回「教授登用論文試験」に挑戦された八十歳のおばあちゃんの話しを聞きました。選んだテーマは、「『生死』についての一考察」。 この方がしみじみ語っていたそうです。「今まで、こんなに勉強したことはありません。仏法の三世の生命観を真剣に学んでいるうちに、死ぬということが怖くなくなってきたんです」と。こうやって「学んでいる」事実が、すごいことですね。 名誉会長: その通りです。「学ぶ」ことです。それは哲学を学ぶだけに限らない。人々の現実の「死」の姿からも学ばなければならない。なぜなら、亡くなった人々は、だれであれ、「死」を経験したという点で「人生の先輩」にあたるからです。たとえ、それが年下であっても、子どもであっても、「先輩」です。 Tweet