投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月14日(金)12時48分3秒     通報
■ 法華経は一切衆生の己心のドラマ

斉藤: それは、戸田先生の「己心」の中の悟りですね。その時の獄中の戸田先生を、もしか別の人が見ていたとしても、その人には虚空会は見えなかったでしょう。

名誉会長: 己心です。法華経自体が釈尊の己心の説法であると戸田先生は言われていた。序品や神力品の瑞相も、声聞や菩薩たちとの対話も、宝塔の出現も、地涌の菩薩の涌出も、全部、釈尊己心のドラマと見ることができる。

須田: インドの霊鷲山に行った時、地涌の菩薩が出てきた大地の割れ目を探していた人がいました(笑い)。しかし、あくまで己心のドラマであって、事実ではありませんね。

名誉会長: 歴史的な事実ではないが、「生命の真実」を表しているのです。

斉藤: この語らいでも、歴史的な事実ではない法華経のドラマを、便宜上、事実であるかのように語ってきたことがあります。それは、必ず「生命の真実」を表していると考えられるからです。

遠藤: 釈尊己心の説法ということでわかりにくいのは、釈尊自身です。法華経に登場する釈尊も「釈尊己心の釈尊」ということになるのでしょうか。

名誉会長: 釈尊己心の自己自身です。ある意味で、迹門から本門に至る過程は、釈尊が「真実の自己」を顕していくためにあると言えるのではないだろうか。
他の登場人物や出来事も、すべて釈尊自身の「真実の自己」を顕すための役割を担っている。

斉藤: 寿量品の久遠の本仏が、釈尊の「真実の自己」にあたるわけですね。

名誉会長: そう。久遠の本仏は、永遠の妙法と一体の「永遠の自己自身」を表しているのです。

須田: 地涌の菩薩も「釈尊己心の菩薩」ということになりますね。

名誉会長: 釈尊の「永遠の自己自身」に具わる「永遠の菩薩」です。「御義口伝」にも「釈尊・所具の菩薩なるが故本地本化の弟子を召すなり」(御書 p798)と仰せです。
釈尊だけではない。大聖人は「一人を手本とし一切衆生平等」(御書 p564)と仰せです。釈尊の「永遠の自己」は一切衆生の「永遠の自己」なのです。一切衆生が総じては本仏なのです。地涌の菩薩も一切衆生に具わる「永遠の菩薩」です。そのことを大聖人は「観心本尊抄]で、「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非らずや」(御書 p246)、「我等が己心の釈尊は(中略)無始の古仏なり」(御書 p247)「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」(同)等と仰せられている。

遠藤: 法華経のドラマは、一切の人々の生命のドラマなのですね。
そうしますと、大聖人の法華経 —- 御本尊も同様でしょうか。

名誉会長: 大聖人は、虚空会という法華経の舞台を用いて、ご自身の「永遠の自己自身」を御本尊として顕されたのです。
大聖人の「永遠の自己自身」とは、言うまでもなく「南無妙法蓮華経」です。御本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とお認めの通りです。

斉藤: 御書にも「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ(中略)日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(御書 p1124)と仰せです。

名誉会長: 戸田先生の獄中の悟達も、“折伏戦の棟梁”としての「永遠の自己自身」をつかまれたと考えられる。これが虚空会の体験です。それは、まぎれもない「生命の真実」です。「事実以上の根源的事実」なのです。ですから戸田先生は、虚空会を事実として語られている。学会員も、そこに連なっていたのだと語られたこともあった。

遠藤: 「ボヤボヤして後ろのほうで居眠りなんかしていた人が、いまになって教学がわからないのです」ともおっしゃっています(笑い)。

斉藤: 戸田先生はまた「われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」と言われています。これも獄中でつかんだことの表現なのですね。

須田: 大聖人の顕された御本尊の相貌が、戸田先生が獄中でつかんだものと寸分違わず異ならなかった。この事実も、戸田先生がまさに御本尊の体内に入られたということの証左と思います。

名誉会長: 戸田先生は、権力の魔性と真っ向から戦われた。その信心によって得られた大境涯です。以信得入です。それで法華経がすらすら読めるようになった。法華経が説き示そうとしているのが、永遠の妙法、すなわち南無妙法蓮華経であることが体得できたからです。ですから、「御本尊への信心がなくて法華経が読めるものか。読めるわけがない」とよくおっしゃっていた。
■ 足下を掘れ、そこに大生命あり

須田: 獄中での唱題と思索の闘いは、法華経との対決であると同時に、ご自身を見つめ、ご自身を掘り下げられていった実践であったと思います。

名誉会長: 「仏とは何か」を追求し抜いて、仏とはほかならぬ自分のことであり、宇宙の大生命であり、それらは一体であるとわかった。
“足下を掘れ、そこに泉あり”という言葉は有名だが、自身の根源を掘り下げていく時、そこに万人に共通する生命の基盤が現れてきた。それが永遠の宇宙生命です。戸田先生は、まさに自身の根源を悟られるとともに、“あらゆる人が、じつは根本においては地涌の菩薩である”という人類共通の基盤を悟られたのです。その“生命の故郷”を知ったのが、学会員です。
先生は、その胸中の深いご確信を何とか学会員と分かち合おうと心を砕いておられた。時には「地涌の菩薩の皆さん、やろうではないか」と呼びかけられたこともある。
自身の本源の生命に生き抜いた人は、どれほど尊いか。どれほど強いか —- そのことを私どもに命懸けで教えてくださったのが戸田先生です。また、ご自身の一生を通して実証してくださった。“一人の力”は偉大です。まことの地涌の菩薩であれば、力が出ないわけがない。その確信がすべての出発点です。
自己の根源には、清浄なる宇宙大の生命が広がっている。この自覚と証明が「人間革命」なのです。