投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月14日(金)06時59分33秒     通報
■ 「宝塔の中へ入るべきなり」

須田: この戸田先生の自覚は、それ以前の「仏とは生命なり」という悟達と、どのような関係にあるのでしょうか。

斉藤: 「仏とは生命なり」とは、昭和19年の3月初め、戸田先生が無量義経の経文を思索している時に得られた悟達ですね。有に非ず、無に非ず —- という「三十四の否定」を超えて実在する仏とは何なのか —- と。地涌の菩薩の悟達は11月のことですから、その間には八ヵ月ほどの経過があります。その間、戸田先生は引き続き、唱題と思索を続けられました。

遠藤: 「仏とは生命なり」との悟達は、どちらかと言えば、知的な側面が強いのではないでしょうか。それが、全人格的な体験へと深まったものが「地涌の菩薩の自覚」ではないかと思われます。その意味で、二つの悟りは、一連のものと言えるのではないでしょうか。

名誉会長: 戸田先生の悟りの全容は、到底、語り尽くせないが、先生は法華経ゆえに投獄された。迫害に耐えて信念を貫いた。そのこと自体が法華経を身をもって読むことであり、全人格的な体験です。忍難即仏界です。難と戦う信心によって、生命に大変革が起きたのです。「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書 p234)との仰せの通りです。
悟りとは単なる認識ではない。ここが大事です。永遠の生命は認識するものでなく、それを生きるものです。修行が必要なのです。なぜならば、認識しようとしても、そうしようとしている自己自身をも支えているのが「生命」だからです。「波」に「海」をつかむことはできない。「小」で「大」をつかむことはできない。では、どうするのか。
大いなる永遠の生命を、小さな我が身の上に顕現する —- 涌現する —- 以外にないのです。そためには、全存在をかけた自己浄化が必要です。それが仏道修行です。
娑婆世界の衆生の心は、煩悩や業によって顛倒している。すなわち我々の生命は、本来は「妙法根本」です。それが、「エゴ根本」になってしまうのが顛倒です。仏界という「永遠の生命」が自己の上にしみ通ってくるのを、その顛倒が邪魔しているのです。

遠藤: 寿量品には、顛倒の衆生は仏が近くにいても見えない、とあります。また、顛倒の衆生は苦しみの海に沈んでいる、とも説かれています。(「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」(法華経p506)、「我諸の衆生を見るに苦海に没在せり」(同 p507)

名誉会長: そう 詳しくは寿量品で学びたいが、その場合の仏とは、久遠の本仏としての釈尊だね。仏のことを如来と言う。如来とは、“如々として来る”、つまり妙法が瞬間瞬間、ここにいる自分にありのままに現れて来る生命状態です。
この妙法の永遠の律動が、すなわち永遠の生命です。また、仏の本体であり、本仏です。諸仏のすべての功徳の源泉でもある。まさに戸田先生が悟られたごとく、「仏とは生命」なのです。
この本仏は、じつは私たちの生命の根源でもある。その意味で本仏は近くにいるのです。しかし、「顛倒の衆生」には、この本仏が見えないのです。
難と戦うということは、自身の顛倒した心を鍛えて、永遠の生命と一体化していくことになる。自己コントロールというか、楽器を調律するように、我が生命を、永遠の妙法の律動に合致させていく。全人格が永遠の宇宙生命と融合していくのです。それが地涌の菩薩です。
大聖人は仰せです。「魚の水に練れ烏の天に自在なるが如し」(御書 p1033)
地涌の菩薩は、はるか昔から、ひたすら妙法を修行してきた。妙法根本、信心根本の生き方を鍛えてきた。大聖人は、地涌の菩薩を「されば能く能く心をきたはせ給うにや」(御書 p1186)と仰せです。
だからこそ娑婆世界で大難にも耐えて弘教していける。仏界に住しているからです。

須田: それが迹化の菩薩との違いと言っていいのでしょうか。

名誉会長: そう言えるでしょう。迹化の菩薩や他方の菩薩は、あくまで「成仏を目指す菩薩」です。それでは娑婆世界の弘教には耐えられない。
久遠の妙法に習熟し、練達した本化地涌の菩薩でこそ、その任に耐えられるのです。
牧口先生は「『塵も積もれば山となる』というが、実際に塵が積もってできた山はない。できるのは、せいぜい塚ぐらいのものである。現実の山は地殻の大変動によってこそできる。同じように、小善をいくら重ねても大善にはならない」と言われた。
小善を重ねて成仏しようというのが「迹化の菩薩」の生き方とすれば、「本化の菩薩」は法性の淵底、生命の奥底から、あたかも火山の爆発のごとき勢いで、仏界の大生命力を噴出させるのです。
地涌の菩薩は、つねに妙法を修行し、瞬間瞬間、永遠の生命を呼吸している菩薩です。修行する姿は菩薩でも、内面の境涯は仏です。
地涌の菩薩として虚空会の儀式に参列していたという戸田先生の体験は、先生が永遠の生命の世界、本仏の真如の世界に確かに入ったということではないだろうか。

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涌出品から
「是の諸の大菩薩は 無数劫より来 仏の智慧を修習せり 悉く是れ我が所化として 大道心を発さしめたり 此等は是れ我が子なり 是の世界に依止せり」(法華経 p487)

(釈尊は、地涌の菩薩をさして言う)この多くの大菩薩は、無数劫という長遠な昔から、ずっと仏の智慧を求めて修行してきた者たちである。彼らのすべてを教化し、大いに仏道を求める心を起こさせてきたのは私である。彼らは私の子であり、この世界にとどまっている。
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遠藤: 「仏とは生命なり」という覚知と、地涌の菩薩の自覚とは深く結びついているということですね。

名誉会長: その通りです。戸田先生は詠まれた。
「御仏の命を悟らば久遠より地涌の菩薩と我を誇らん」。
会長に就任された昭和26年のお歌です。

斉藤: 虚空会は永遠の生命が顕現した宇宙大の世界です。また、地涌の菩薩は、永遠の生命を体現した菩薩です。そして、御本尊は、虚空会という永遠の世界を用いて、永遠の妙法と一体であられる大聖人のご境涯そのものをご図顕されている。その意味で、戸田先生の体験は御本尊の世界に入られたことを意味するのではないでしょうか。
先生は、昭和20年に出獄されてご自宅に戻られた時、直ちに御本尊を間近に拝して、ご自身の悟達が間違いないことを確認されています。

遠藤: 池田先生の小説『人間革命』には、その時の模様が、次のように述べられています。
「彼は、御本尊に頬をすりよせるようにして、一字一字たどっていった —- たしかに、このとおりだ。まちがいない。まったく、あの時のとおりだ。彼は、心につぶやきながら、獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式が、そのままの姿で御本尊に厳然として認められていることを知った。彼の心は歓喜にあふれ、涙が滂沱として頬をつたわっていった。 —- 心に、彼ははっきりと叫んだのである。 —- 御本尊様、大聖人様、戸田が必ず広宣流布をいたします」。

名誉会長: 有名なご金言に「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(御書 p1244)とある。戸田先生は、この御文を、ありありと実感されたのです。
そして大聖人が、信心によって「此の御本尊の宝塔の中へ入るベきなり」(御書 p1244)と仰せの通り、宝塔の中に入られた。虚空会の中に入られた。
御本尊即宝塔、宝塔即自身、その真実を、先生は生命全体で知ったのです。