投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月14日(金)18時33分45秒     通報
■ 「宇宙即慈悲」の体現者

斉藤: この地涌の菩薩について、「御義口伝」には「千草万木・地涌の菩薩に非ずと云う事なし」(御書 p751)と仰せです。地涌の菩薩というと、どうしても“人”を思い描くのですが —- 。

遠藤: 生命を利益する“働き”のことでしょうか。「御義口伝」には続いて、「されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり」(御書 p751)とあります。

名誉会長: 一つの指針は、戸田先生の「慈悲論」にあると思う。そこでの結論は、「この宇宙そのものが慈悲の当体である」と。
万物を生成し、変化させ、生死生死を繰り返させながら、一切を生かそうとしている宇宙。この宇宙という大生命そのものが、仏の当体です。無作三身の仏の当体なのです。
宇宙の慈悲とは「本有の仏界」の力用である。また「本有の菩薩界」の力用であり、これが地涌の菩薩の働きなのです。ゆえに総じては、宇宙の生きとし生ける一切のものが神聖なる地涌の菩薩なのです。別しては、この生命の法に目覚めた者を地涌の菩薩と呼ぶのです。
菩薩道は人間性の極致の行動です。それは根底において、宇宙の慈悲の力用と一体なのです。私どもが友の幸福を祈り、語り、動いていくとき、その身口意の行動のなかに、永遠の生命が現れ出ているのです。

遠藤: まさに仏法の「宇宙的ヒューマニズム」を仰ぐ思いがします。しかもそこには、山川草木も含めて、一切の存在のもつ尊厳性への敬意の目があります。

斉藤: 法華経で出現した地涌の菩薩たちは「無量百干万億の国土の虚空に偏満せる」(法華経 p476)とあります。まさに宇宙的なスケールで、空間を覆い尽くわけですね。

須田: “宇宙即慈悲”の体現者として描かれた無数の人間群像 —- 何と荘厳で、壮大なドラマでしょうか。涌出品に眼を開けば、社会のさまざまな差別意識や、エゴイズムに翻弄される姿が、本当にちっぽけなものに思えてきます。

斉藤: かつて先生が、ロサンゼルスの友に贈られた長編詩「新生の天地に地涌の太陽」を思い起こします。そこでは、地涌の菩薩を、あらゆる差異を突き抜けた、人類根源の“ル-ツ”として歌われていました。

みずからのルーツを索めて
社会は千々に分裂し
隣人と隣人が
袂を分かちゆかんとするならば
さらに深く 我が生命の奥深く
自身のルーツを徹して索めよ
人間の“根源のルーツ”を索めよ
そのとき 君は見いだすにちがいない
我らが己心の奥底に
厳として広がりゆくは
「地涌」の大地 —- と!

その大地こそ
人間の根源的実在の故郷
国境もなく 人種・性別もない
ただ「人間」としてのみの
真実の証の世界だ
“根源のルーツ”をたどれば
すべては同胞!
それに気づくを「地涌」という!

須田: だれもが神聖である。だれもが、かけがえのないユニークな(唯一の)存在であり、しかも、だれもが共通の「生命の大地」の子どもである。このことを教えたのが涌出品なのですね。

遠藤: ロスでは、その前年の1992年、黒人による“暴動”の悲劇が起きたばかりでした。白人の警官が、無抵抗の交通違反者の黒人に暴行を加えた事件で、警官に無罪の評決が下ったことに端を発した惨劇でした。

名誉会長: 差別は絶対に悪です。「顛倒の心」は、自他ともの生命を傷つけてしまう。
人種や民族に、自分たちの“ルーツ”を求めても、それは虚構です。砂漠に浮かぶ蜃気楼のようなものだ。人類共通の“生命の故郷”にはなれない。
むしろ、他者との差異ばかりを際立たせ、対立・抗争の元凶となってしまう。
今、求められているのは「人間観の変革」です。これが変われば一切が変わる。
人間よ、国家や民族の軛にとらわれるな。また、自分を無力な存在と思うな。物質の集まりにすぎないと思うな。遺伝子の奴隷とも思うな。本来はもっと無限の、大いなる可能性をもつ存在なのだ —- と。
本来、人間は、宇宙と一体の大いなる存在なのだ! 個人の力は、かくも偉大なのだ! これが法華経のメッセージです。

遠藤: だからこそ「希望の経典」なのですね。