2015年8月12日 投稿者:KS部OB 投稿日:2015年 8月12日(水)09時52分7秒 通報 【各部代表研修会】(2006.8.23) きょうもまた、世界の知性の言葉などを通し、懇談的に語りたい。 皆、研修をするために集ってくださっている。 何かを新しく学ぶ。吸収する。 信心を深め、自身を鍛えていく ── そのための研修道場である。 なお、この夏、長野研修道場を訪れた映画俳優で、SGI(創価学会インタナショナル)メンバーであるオーランド・ブルームさんから、「皆さまのご多幸を祈っています」との伝言が寄せられたので、ご紹介させていただく(大拍手)。 〝ウクライナのソクラテス〟と謳われる哲学者のスコヴォロダは述べている。 「人間の心は鍛えなくてはならない。それを避けると、高潔な思想も、真理の理解も、英知の精神も、すぐさま高貴な素性とは相容れない、卑劣なものに染まってしまう」 心を鍛えるのが仏法である。信心である。 鍛錬がなければ、人間は堕落してしまう。 ドイツの哲学者カントも述べている。 「何人たりとも訓練なくして有徳であることはできない」(御子柴善之訳「コリンズ道徳哲学」、『カント全集20』所収、岩波書店) 本当にその通りだ。 リーダーこそ、率先して自身を訓練していかねばならない。 牧口先生が傍線を引かれ、拝読しておられた御書の一節に、こう仰せである。 「摩訶止観に『師にあわなければ邪「な智慧が日ごとに増し、生死の迷い、苦しみは月ごとに甚だしい。密林で曲がった木を引きずるように、そこから出る時期がない』とある」(御書153ページ、通解) だれの指導も受けない。だれからも、何も言われない。それでは、だんだんおかしくなってしまう。 師匠がいればこそ、自身の弱さを見つめ、それと向き合うことができる。正しい人生の道を歩み抜くことができる。 だからこそ、師弟が大切なのだ。 アメリカ実践哲学協会会長のマリノフ博士は述べている。 「苦境こそ真に人間が試されるときだ(中略)自分のなかの基本的な信念が最も輝かしく照らし出されるときでもある」(吉田利子訳『元気哲学 ── 生命篇』アーティストハウスパブリッシャーズ! 角川書店) マリノブ博士とは、3年ほど前に、21世紀に求められる哲学をめぐって語り合った。〈2003年2月。その際、同協会から名誉会長に「人間哲学貢献賞」が贈られた〉逆境の時に、どう生きるか ── そこに人間の真価が現れる。 イギリスの思想家ラスキンは述べている。 「試練を受けた心情と知性だけが最良の実を結び、他は結ばない」(内藤史朗訳『世界教育学選集46 芸術教育論』明治図書出版) なんの試練もない。また、試練から逃げる。そういう人はい真の幸福をつかむことはできない。勝利者にもなれない。 仏法においても、法難を避け、ずる賢く立ち回っているような人間は、絶対に仏にはなれないのである。 「キューバ独立の父」ホセ・マルティは訴えた。 「生きるということは世の中のために善を行うということである」(青木康征・柳沼孝一郎訳『ホセ・マルティ選集第2巻』日本経済評論社) 友の幸福のため、よりよき社会の建設のために祈り、語り、行動する。 広宣流布に生き抜く私たちは、最高の善の人生を歩んでいる。 デンマークの思想家キルケゴールは綴っている。 「およそ善の存在するところには、必ず勇気がともなっているものである」(『キルケゴールの講話・遺稿集4』、岩永達郎訳、新地書房) 信仰で大切なのは勇気である。人生で重要なのも勇気だ。勇気がなければ、敵とも戦えない。 私は青年時代、学会や戸田先生を誹謗する人間とは、徹底して戦った。厳然と、言論で勝ち抜いた。 勇気がない。臆病。卑怯。そんなことでは、学会を守ることなどできない。特に青年部の諸君には、先頭に立って、一切の悪を打ち破ってもらいたい。 フランスの文豪ユゴーは、若き友に、こう書き送っている。 「若い立派な才の持主であり高尚」なる精神の持主たる諸君に依って漸次光明は輝いて来る」「諸君の如き若き人々が勝利をかちうるのである」(神津道一訳「追放」、『ユーゴー全集』所収、ユーゴー全集刊行会、現代表記に改めた) 未来を開くのは青年である。 皆さんに、すべてを託す以外にない。 ユゴーは、こうも綴っている。 「信念をもっているわれわれは、何をおそれることがあろうか?」(井上究一郎訳「レ・ミゼラブル」、『世界文学全集第44巻』所収、河出書房新社) 学会には最高峰の哲学がある。信念がある。理念がある。それを庶民が真剣に実践しているのだ。 超一流の哲学者と同じである。 我々には、恐れるものなど何もないのだ。 戸田先生は、本当に厳しかった。 私は、ずいぶん叱られた。一つ一つ徹底して訓練された。 10年間、先生から万般の学問の教授も受けた。あまりにも偉大な先生であった。 私には、弟子としての責任がある。約束がある ── そういう思いで、今も戦っている。 御聖訓には、「師匠となり、弟子となることは三世にわたる約束である」(御書1070ページ、通解)と仰せである。 これも、牧口先生が傍線を引いて拝しておられた御文である。 仏法の師弟は厳粛である。決して簡単に考えてはならない。 若き日に、私は東京の文京支部で支部長代理として戦った。 当時(1953年)、文京支部の折伏成果は全国で最下位クラス。支部長は、田中都伎子さんという女性であった。 支部を見かねた戸田先生が、「僕の懐刀を送ることにしよう」と言って、私を派遣されたのである。 そして、1年もたたないうちに、文京は第一級の支部へと発展を遂げた。 私は蒲田支部でも、拡大の突破口を開いた。あらゆる戦いに勝利してきた。師匠の期待に応えてきた。 戸田先生亡き後も、世界広布への道を開いた。 私は、すべてをやり切ってきた。だから、何の後悔もない。 なかでも関西は、私が師弟不二の闘争で築いた常勝の城である。 関西には、頭のてっぺんから足のつま先まで「師弟」の精神が脈動している。だから関西は強い。微動だにしない。 私は「第2の関西」というべき師弟の城を、この信越をはじめ、各地に築きたい。 もう一度、新しい学会を築く思いで、戦っていく決意である。 大切なのは異体同心の団結である。リーダーが師弟不二の精神に立って、互いに団結していくことだ。 皆が一つになって戦えれば、これほど楽しいことはない。 大聖人は池上兄弟に対して、こう仰せである。 「二人が一体で進む姿は車の両輪のようである。鳥の二つの翼のようである。 たとえ、妻子などが仲違いをされることがあっても、兄弟二人の仲は、不和になってはなりません。 こう言うと恐縮ですが、二人がともに日蓮のことを(師匠として)尊いと思って(心を合わせて)いきなさい。 もし二人の仲が不和になられたならば、二人に対する(諸仏・諸天等の)加護がどうなってしまうかと考えていきなさい」(同l108ページ、通解) 重要な御文である。 同志の間に不和があり、異体同心でなかったら、何をやってもうまくいかない。広宣流布は進まない。 それどころか、かえって広宣流布を妨げる存在となってしまう。 中国の女性革命家である秋瑾は述べている。 「(ニセ革命家とは)いたずらに虚名をうらやみ、現実の行動がなく、互いに排斥し、互いに欺き合い、人に損を与えることで自己を利する者である」 こうした存在には絶対になってはならない。 フランスの大画家ドラクロアは、同じく画家であったプッサンの次の言葉を記している。 「私は年をとる毎に進む気がする。そしてますます向上しよう、もっともっと完全なものに近づこうという熱望に心の燃えるのを覚える」(植村鷹千代訳『芸術論』創元社、現代表記に改めた) 年を取ったからといって、情熱を失ってはならない。 いつまでも、心は青年のごとく! 永遠に向上の人生を! これが妙法を持った私どもの生き方である。 リーダーは、徹して誠実であっていただきたい。 「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」(御書759ページ) ── 仏法では「本有無作の三身」を説く。 形式ではない。変につくろったり、自分を偉く見せる必要もない。 「心こそ大切」(同1192ページ)である。誠実に、ありのままの自分の良さを出していけばいいのだ。 皆に心で訴える。心で感動を与える ── そういう一人一人であっていただきたい。 学会の幹部は皆に奉仕する存在である。自分の思うとおりに皆を動かそうなどと考えるのは、とんでもないことだ。 意見が合わない人もいるだろう。しかし、そういう時こそ謙虚になって、相手の話によく耳を傾けていくことだ。 会員の皆さんは、本当に頑張ってくださっている。そうした方々を最大に讃え、ほめていくのがリーダーである。 また、リーダーは朗らかであってほしい。そうであれば、皆、楽しい。 そして、すべてに責任感をもつ存在であってもらいたい。それが本当の指導者だ。 統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領は述べている。 「繁栄の中で漫然とそれを享受するだけではなくて、責任をまっとうしていくという生き方をすれば、その人の生き方はさらに生きがいのあるもの、意味のあるものになる (「琉球新報」朝刊、1999年4月17日付) 重要な指摘であると思う。大統領とは、ドイツの大統領府で語り合ったことが懐かしい。 スペインの作家セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』。その中で、主人公のドン・キホーテが、従者のサンチョ・パンサにこう語る場面がある。 「お前に起こるあらゆる問題を過つことなく見事に解決するという、固い意志と信念をつねに保持せよということじゃ」(牛島信明訳『ドン・キホーテ後篇(二)』岩波督店) 目標に向かって進んでいけば、必ず何か問題は起こってくるだろう。 それから逃げないことだ。断じて乗り越えていく ── その強き意志を持つことだ。 御聖訓には仰せである。 「この曼陀羅(=御本尊)を身に持てば、王を武士が護るように、子を親が愛するように、魚が水を頼みとするように、草木が雨を願うように、鳥が木を頼みとするように、一切の仏・神等が集まって、昼夜にわたって影のように護られるでありましょう」(御書1477ページ、通解) 御本尊を持ち、妙法に生き抜くならば、諸天が守ることは間違いない。 凡夫は疑い深いため、なかなか信じられない。しかし、必ずそうなっていくのである。 また、大聖人は「法華経を信ずる人は、幸いを万里の外から集めることでしょう」(同1492ページ、通解)とも仰せである。 妙法に生き抜く人が、幸せにならないわけがない。 それを、ちょっとしたことで疑う。不平や文句ばかり言う。それでは、せっかくの福運も消えてしまう。結局、損である。 大聖人は、こうも述べておられる。 「花は咲いて木の実となり、月は出て必ず満ち、灯火は油をさせば光を増し、草木は雨が降れば茂っていく。(それと同じように)人は善根を積めば、必ず栄える」(同1562ページ、通解) 学会活動によって私たちは最高の善根を積むことができる。一家一族が大福徳に包まれ、栄えていくことは間違いないのである。 人生は、最後の勝利が最高の幸福である。私は、全同志の人生の勝利と栄光を毎日、心から祈っている。 それでは、どうかお元気で! 下半期、そして明年の晴れやかな勝利へ、全魂の指揮を頼みます! (大拍手) Tweet