投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月10日(月)20時31分53秒     通報
■ 「千葉の蓮華」

名誉会長: さて「蓮華の文化史」の続きだ(笑い)。アジアでは、どうだったか。日本、中国、インドの順に見てみよう。

須田: 日本でも、蓮華の話が『日本書紀』や『万葉集』にもありますので、古くから愛されていたようです。仏教が広まるにつれ、中国から多くの観賞用の立派な花蓮の品種が伝わってきたようです。

遠藤: 日本では、古くから、各地にハスがあったようで、ハスに関連する地名がたくさん、残っています。

名誉会長: そうだね。日蓮大聖人御聖誕の地・千葉も、一説には「千葉の蓮華」に由来するといわれる。

斉藤: 「千葉」の由来について、古文書には、「池田の池」というのがあって、そこに蓮華が千葉に咲いていた、といいますね。
(『妙見実録千集記』に「池田の池とて清浄の池あり。此の池に蓮の花千葉に咲けり」とある)

須田: 先生と同じ名前の池ですね。

名誉会長: よくわからないんだが、我が家のルーツは、千葉の池田郷というところにあるのではという人もいる。
また、千葉県庁舎は、この池田の池があったあたりに建てられているそうです。

斉藤: 「千葉」というのは、別に葉っぱが多いということではなくて、千枚の花びらがある蓮華という意味ですね。

遠藤: 実際、そんな蓮華があるんでしょうか。法華経にも提婆達多品に「千葉の蓮華」が出てきますが。

名誉会長: 文殊師利菩薩が「千葉の蓮華の、大いさ車輪の如くなる」(法華経 p427)に乗って出現したとあるね。
千枚の花びらがある蓮華が本当にあるかどうか。くわしくはわからないが、蓮の花びらは、通常は、二十枚から二十五枚で、これが一重咲きとされる。しかし、時には、百枚、三百枚にもなるそうだ。
さらに、花托の部分からまた花が開く「多頭蓮」という種類があって、これには花びらが三千枚から五千枚になるものもあると聞いたことがある。
「千葉の蓮華」を実際に見たことはないけれども、子どものころの忘れ得ぬ風景に、家の近くのハス池があります。
小学校五年生の時だったと思うが(昭和13年)、実家がそれまでの広い屋敷を人手に渡して移転した。(蒲田区(現在の大田区)糀谷三丁目から、糀谷二丁目へ)
日中戦争が始まっていて、兄たちは戦争に行ってしまうし、父は体をこわしていた。
その移転した家の隣に、ハスの池があった。そう、数百本は優にあったと思う。ハスの花が次々に咲き広がっていく、あの光景は忘れられない。
毎年、咲くのを楽しみに待ったものです。その家も、やがて強制疎開させられてしまったが —- 。今は、その池もなくなったようだ。時代の流れでしょう。
さて、中国はどうだろうか。

須田: はい。中国で蓮華を称えた文章といえば、宋の周敦頤(茂叔)の「愛蓮の説」が有名です。
彼は「蓮を好む理由」をいくつかあげていますが、整理するとこうなります。
(1)泥から出て泥に染まらない。 —- 如蓮華在水です。(2)清らかな漣に洗われて妖艶なところがない。(3)中に穴が空いていて、すきっと筋が通っており、外もまっすぐで、蔓も枝もない。(4)香りが遠くまで届き、しかも遠くにいくほどすがすがしい。(5)まっすぐ上に、行儀よく生え、遠くから眺められ、間近ににじり寄って、楽しむものではない。
そして、清らかな蓮を「君子の花」として、賛嘆しています。

名誉会長: なるほど。蓮華は清らかなものの代表だね。仏教でも、蓮華は「清浄」を表す。
ところで、蓮華はなぜ泥水に染まらないのかな。

斉藤: 植物学者の牧野富太郎博士によれば、葉に細かい毛のようなものがあって、水をはじいてしまうからのようです。

遠藤: 中国で、蓮華が清らかなものとされたのは、仏教の影響だと思われます。仏教が伝わる以前は、蓮華は、多産とか繁栄の象徴だったようです。
また、蓮の字の音の「レン」が「恋」や「憐(憐れむ)」に通じるので、恋愛や愛情の象徴でもあったようです。
また、蓮華の各部分が、「食用」や「薬用」に使われています。

名誉会長: 蓮華は古くから身近な存在だったんだね。

遠藤: 蓮根や葉や雄しべには止血作用があります。中国では、他の生薬と調合して、胃潰瘍や子宮出血や痔などに使うそうです。

須田: インドでも、種を生で食べたり、蓮根を漬物の一種や油いためにしたりするそうです。またインド医学でも、古くから、蓮華がさまざまに使われています。

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涌出品から
「善く菩薩の道を学して 世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し 地より涌出し 皆恭敬の心を起して 世尊の前に住せり 是の事思議し難し」(法華経 p492)

(弥勒菩薩が地涌の菩薩をたたえつつ釈尊に言う)善く菩薩の道を学んでいて、煩悩に汚れた世間のあり方に染まらないでいる。それは、あたかも、蓮華が泥水に染まらずに清らかでありつづけるようである。
今、彼らは、大地から涌き出でて、皆、深い尊敬の心を起こして、釈尊の前にいる。このことは、実に、不思議なことである。
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