投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月10日(月)12時46分24秒     通報
■ 花と果が同時に生長

名誉会長: その通り。厳密にいうと、この部分は花托だね(花托とは、花弁、雄しべ、雌しべなどをつける部分)。ハスの種子が、この“蜂の巣”の穴の中にある。

須田: 種がそこにあるから、「果実」に当たると考えていいわけですね。

遠藤: そこで蓮華の特徴は、花が開く前から、この果実(花托)が大きく成長することです。
普通は「花が先で、果が後」です。これを因果に分けると、花が原因で、果は結果です。「原因が先で、結果が後」というのは、とても自然です。
ところが蓮華は、花(原因)と果(結果)が同時に大きくなっていく。そこで、「因果倶時」(因果異時の反対)いう法華経(妙法蓮華経)の法門の譬えに、蓮華を使うわけです。(譬喩蓮華)
■ 地涌の証とは「永遠の前進」

名誉会長: 「因果倶時」という法門は、甚深の法門だから、機会を改めて論じたい。
一言だけ言っておくと、この因果とは、特に「仏因」「仏果」を指している。仏界が「果」、仏界を目指しての修行が「因」です。通常は、これが同時にはありえない。あくまで修行(困)があって、成仏(果)があるわけです。
ところが南無妙法蓮華経という成仏の「本因」を修行すれば、じつは、その修行自体がすでに仏界である。南無妙法蓮華経は、成仏の「本因」であり同時に「本果」です。
この不思議の法(妙法)を蓮華で譬えたわけだが、大事なことは、この「因果倶時」を我が身に体現しているのが、「地涌の菩薩」だということです。

斉藤: 地涌の「菩薩」だから、「仏因」の立場です。にもかかわらず、その内証は、すでに「仏」である(「仏果」を得ている)ということですね。

名誉会長: 「仏である」といっても、何か、止まった一つの状態のことではない。蓮華の果が花とともに生長するように、広宣流布の「行」とともに、「仏果(仏界)」もいよいよ成長していくのです。
その意味で、地涌の菩薩とは、「永遠の前進」「永遠の成長」を意味する。ゆえに、前進を止めてしまえば、もはや地涌の菩薩ではない。