2015年8月9日 投稿者:KS部OB 投稿日:2015年 8月 9日(日)20時44分50秒 通報 【徒然草と恩師の指導を語る-②】(2006・8・12) 「徒然草」は、数多くの作家たちが愛読してきた。 私が語り合った評論家の小林秀雄氏は、「徒然草」と題した評論のなかで、『エセー』の作者であるフランスのモンテーニュと比較して、〝モンテーニュがやったことを、その200年も前に、はるかに鋭敏に、簡明に、正確にやった〟と評価していた。 『たけくらべ』などで有名な樋口一葉は、徒然草に深い思想的影響を受けたといわれる。 歌人の与謝野晶子は、「新訳徒然草」を出している。 武者小路実篤は「徒然草私感」のなかで、〝読めば読むほど、どこにも無駄がなく、書く理由がなくて書いたところが一つもないのに感心する〟と綴っていた。 「徒然草」の言葉を、さらにいくつか紹介したい。 「昔の聖天子の御代の理想的な政治をも忘れ、民が嘆き、国が衰えてゆくのも意に介さず、万事に華美の限りを尽してそれを得意がり、大きな顔をしている人は、なんとも実に無分別なものだと思われる」(第2段) いつの世も変わらぬ怒り、嘆きである。 権力を持つ人間、政治家を、民衆が、なかんずく青年が、厳しく監視し、戒めていかなければならない。 その必要が、ますます高まっている。 戸田先生は指導者の姿勢について語られた。 「大聖人の仰せに『一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし』とある。 なんという慈悲の広大さか。政治の要諦も、この大聖人の一言に帰するのである」 政治の世界をはじめ、世の指導者が、「同苦」の精神を忘れる ── これほど、民衆にとって不幸なことはない。 戸田先生は、こうも述べておられる。 「政治も、経済も、科学も、教育も、すべて人間の手に取り戻して、人類の幸福の糧としていくことだ。そこに、これからの創価学会が果たしていかねばならぬ使命がある。仏法の社会的行動がある」 私たちは、「人間革命」の実践を核として、このような世界を目指している。 私たちの目的は、一人一人が、個人的な成功や社会的実証を得ることだけに、とどまらない。 それだけで終わるような、ちっぽけな、狭いものではない。 もっと深い次元から、もっと恒久的な、平等で幸福な世界をつくるのだ! ── これが戸田先生の信念であった。それはそのまま私の理想である。 「抜苦与楽」の哲学を、現実の社会で実践していく。ここに、学会の責任があることを、忘れてはならない。 さらに、次のような巧みな比喩をもって語られたこともあった。 「見事にできあがった創価学会の姿をたとえるならば、海から上がった、生き生きとした大きな鯛である。 この学会の姿に、食い入るような目をさし入れた怪物がある。 むくろまで食いしゃぶろうとして、かかってきている。恐るべきことではないか。 われわれは、この魔物に対して、身構えをしなければならない。 『この創価学会を、野犬の群れに食わせてなるものか!』と」 先生の鋭い洞察力を間近に感じる言葉である。学会のリーダーには、この迫力がなければならない。 また、戸田先生は言われた。 「今こそ最高幹部が、目の色を変えて働く時だ。そして最前線の同志を守り、新たな突破口を開いてもらいたい」 今もまた、その時である。大事なのは「最前線」だ。最高幹部が、「一兵卒」として戦う時である。 牧口先生が、ご自身の御書に傍線を引かれた御聖訓に、有名な「軍には大将軍を魂とす大将軍をく(臆)しぬれば歩兵臆病なり」(1219ページ)の一節がある。 私は、広布の責任者として、戸田先生の弟子として、行った場所、行った場所で、間断なく突破口を開いてきた。今もそうである。 当然、体は大事だ。幹部も、疲れをためないよう、聡明に休息をとっていただきたい。 しかし、広布の戦いを忘れてはいけない。そうなれば、会員がかわいそうだ。会員のための幹部である。 「徒然草」に、こうある。 「きわめて愚かな人は、ふとしたときに賢い人を見て、これを憎む。『大きな利益を得ようとして、わずかな利益を受けないで、うわべを偽って名声を得ようとするのだ』と悪口を言う。賢人の行為が自分の心と違うのでこのような非難をするのである」(第85段) 大聖人は、「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書237ページ)と仰せになられた。 牧口先生は、「愚人に憎まれたるは第一の光栄なり」と断言された。 愚人は、「本物」を目にしても、正当に評価することができない。 ゆえに、愚人のまき散らす、つまらぬ文句に左右されることほど、愚かなことはない。 自ら信じた道を、正義の道を、堂々と進めばいいのである。 「徒然草」の第109段には、有名な〝木登り〟の話がある。 木登りの名手が、木から降りてくる人に対して、高い所にいる時でなく、地上に近づいてから、注意を促した。 「私が『この程度の高さまで降りたからには、飛び降りることもできるだろう。それなのに、なぜそんなことを言うのか』と申すと、(木登りの名手は)『そこが肝心なのです。目が回るような高さで、枝も折れそうな間は、本人が気をつけているので何も申しませんでした。けがというものは、安全な所まで来てするものなのです』と言った」 万事、最後の総仕上げが大事である。 「もう、大丈夫だ」と思ったところで、思わぬ事故を起こしたり、失敗してしまう場合がある。 広布の戦いであれ、仕事であれ、きちんと決着をつけ、有終の美を飾ることだ。 戸田先生は、「創価学会のこれまでの発展というものは、なんの団結によるものかといえば、信心の団結以外には何ものもない」と語っておられた。 勝利の鍵は、どこまでも「水魚の思」であり、「異体同心」である(御書1337ページ)。それがなければ、思わぬところで失敗してしまう。 まさに「水魚の思」で、牧口先生、戸田先生が築いた学会である。私もまた、命を削って築いてきた。この師弟のリズムに、心して、呼吸を合わせていくことだ。 学会の団結には、上も下もない。単なる上下関係になったら、それは誤った官僚主義であり、大勢の犠牲者を出してしまう。絶対に戒めなければならない。 心を一つにして、同じ目標、同じ信念で、困難を切り抜ける。そこに、いっそう堅固な団結が生まれる。 「賢げな人も、他人のことばかり判断を加えて、自分のことは知らないものだ。 自分自身を知らずに他人のことを知るなどという道理はない。だから、自分を知る者を、物の道理を知る人というべきだ」(第134段) また、次のような一節もあった。 「すべての欠点は、ものなれたさまをして巧者ぶり、得意そうなさまをして、人を軽んじるところにある」(第233段) 「万事、自分の外に向かって求めてはならない。ただ、身近なところを正しくすべきである」(第171段) 自分の人生は、自分で歩むしかない。自らを見つめ、〝馴れ〟を排し、慢心を排して、真剣に、誠実に、自らの使命の道を、まっしぐらに完走する。その人が、真の勝利者である。 「一芸を身につけようとする人は、『まだ下手な問は、うかつに、人に知られないようにしよう。ひそかに習得してから人前に出れば、それこそたいへんりっぱに見えるだろう』と言いがちであるが、こんなことを言う人は、一芸も物にできないのである。 まだまったく芸が未熟なうちから、上手な人の中に交じって、けなされたり、笑われたりしても意に介さず、平気でその時期を過ごして打ち込む人は、天分はなくても、中途半端な状態にとどまらず、自己流に走らないで年を送れば、天分はありながら集中力のない人よりは、最後に名人の域に達し、長所も伸び、人から認められて名声を得ることになるのだ」(第150段) これもまた、深い示唆のある一節だ。 学会活動はもちろん、どのような向上の道であれ、遠慮はいらない。 「私には力がないから」とか、「もう少し確信が深まったらやります」とか、そう言っているうちに、人生は終わってしまう。 まず一歩を踏み出すのだ。うまくいかないことがあっても、「よし!」と思い直して、何度でも挑戦すればいい。その連続のなかに成長があり、幸福もある。 作家の吉川英治氏は、『私本太平記』で、兼好のことを、庶民や弱い者の側に立つ人物としてとらえている。 そして「徒然草」を、〝世に残そうとせず、反古(=不用の紙)に書かれたままだったものを、兼好の弟子が集めてできた書〟と描いた。 そして「ふしぎな宇宙の識別というしかない。不壊の権力とみえる物も、時の怒濤の一波のあとには、あとかたもなくなり、反古に貼られた一法師の徒然な筆でも、残るいのちのある物は、いつの世までも持ちささえてゆく」と綴っている(講談社『吉川英治全集』)。 私たちは、万年の未来へ輝きわたる勝利と栄光の大叙事詩を、晴れ晴れと残していきたい。 さらに、戸田先生の指導者論に触れておきたい。 「たとえ自分には力がなくとも、自分の部下に、自分にはないものを持っている人を用いていけば、自分にはなくとも、あるのと同じことになる」 広宣流布は、「長の一念」が重要であるとともに、決して一人だけで成し遂げることはできない。皆の協調と知恵によって、組織を一新させることができる。 また、こうも言われていた。 「年をとって、だんだん上に上がっていくというようなかたちは悪い。広宣流布は、みんなの手でできるのだから、新人を抜擢していくことが大事である」 若手に新しい責任を与えることが、人材育成にもなり、組織も生き生きとする。ここに、リーダーの見識が表れるといってもよい。 「悪と戦う心」について、戸田先生は厳しくおっしゃった。 「破折精神を忘れた者は生ける屍だ。破折精神を忘れた者が幹部になれば、会員が可哀想だ」 悪を悪と言い切る。敢然と声をあげる。その勇気なきリーダーは「生ける屍」だ。 その本質は見栄であり無責任だ。苦しむ人を見ても〝知らん顔〟をする。これほど〝ずるい〟ことはない。 悪と戦い、ずるい心と戦う。これが人生勝利の根本である。 ある時には、幹部に対して、「広宣流布の途上にあって、絶対に、五老僧のごとき存在にだけはなるな!」とも危惧されていた。 五老僧とは、師の教えを軽んじ、自分の身の上だけを考える、増上慢の存在である。 どんなところにも「中心」がある。リーダーは、「中心」を重んじなければならない。学会の中心は、会員である。師弟である。 増上慢は、この中心を認めようとせず、逆に、破壊する。そうした存在とは、断固、戦わねばならない。 広布のリーダーは、一面から言えば、自分自身との厳しき戦いが不可欠である。そして、その戦いに勝利すれば、境涯も大きく開ける。宿命転換の実証も大きい。 特に、若い皆さんに伝えておきたい箴言がある。 イギリスの作家オルコットは、「人格こそは金よりも階級よりも知性よりも美よりもすぐれた持ち物である」と綴った(吉田勝江訳『続若草物語』角川文庫)。 私も同感だ。 仏法の眼からみれば、人生の本当の勝利のために必要なものは、学歴でもない。社会的地位でもない。それは信心である。信心で、人格も鍛えられる。それは人生にとって最大の財産となる。 現在の創価学会をつくりあげてきたのは、尊き無冠の庶民である。学会は、庶民のための組織である。 私は、日本国内だけでなく、世界各地の同志に喜んでいただけるよう、周りから「そこまで気を配るのか」と言われるほど、細かいところまで力を尽くしてきた。 だから創価の世界は強いのである。この「民衆に尽くす志」を、今、青年の世代の諸君に伝えておきたい。 戸田先生は、常に青年に期待されていた。 「学会も、中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる」と、よくおっしゃっていた。 創立80周年へ、また創立100周年へ向けて、青年が立ち上がる時だ。 私はその時を待ち、時をつくっている。 新たな広布拡大のリーダーが各地で誕生している。戸田先生は、組織の責任者に対して、実に厳しかった。 「人のつくった地盤で幹部になり、その椅子にでんと座っている人が多い。自分一人で組織を育ててきた人は少ない」 このように指摘されることもあった。 また、常々「指導者は、人を引きつける力を持たなくてはならない」と話しておられた。 新たな役職は、新たな成長のチャンスである。自身の壁を破り、拡大の歴史を見事に残していただきたい。 それが私の喜びでもある。 この50年をかけて、私は牧口先生、戸田先生の正義を宣揚してきた。 明年の春、世界を代表する名門、アメリカのコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジから、教育哲学をテーマとする研究書が発刊される(「思想と行動 ── 世界の教育哲学と実践にみる普遍的ビジョン」〈仮題〉)。 そのなかで取り上げられる、10人の代表的な教育者のなかに、創価教育の父である牧口先生が入っている(大拍手)。 他の9人には、アメリカのデューイ、中国の陶行知、イタリアのモンテッソーリ、インドのタゴール、ドイツのシュタイナーなどの、世界的な教育者が選ばれている。 また先日は、著名な宗教史学者であるリチャード・シーガー博士(ハミルトン大学准教授)の新著『仏法との出会い ── 池田大作、創価学会、そして仏法人間主義のグローバル化』が、全米の学術出版界を代表するカリフォルニア大学出版から発刊された。 そのなかで博士は、SGI(創価学会インタナショナル)がこれまで発展し、今後も発展していくための鍵として、「師弟の絆」の重要性に言及されているのである。 心ある世界の識者は、真剣に学会の未来に注目し、誠実に研究されている。国境を超えて、多くの人が、真実を求めている。 それらの声に、いっそう力強く、応えていきたい。 その決意と、青年への期待を重ねて申し上げて、私の話を終わります。 残暑は続く。賢明に、一日一日を勝利していってください! (大拍手) 〈編集部でまとめる際、三木紀人訳注『徒然草』講談社学術文庫、島内裕子『兼好』ミネルヴァ書房等を参照しました〉 Tweet