投稿者:KS部OB    投稿日:2015年 8月 9日(日)20時42分38秒     通報
【徒然草と恩師の指導を語る-①】(2006・8・11)

毎日、本当にご苦労さまです。
大勝利の秋へ!
そして明年へ!
新しい時代へ!

いよいよ出発の時である。楽しく、心広々と進んでまいりたい。
学会は、唯一、宇宙の根本の法を弘める広宣流布の団体である。御本尊を流布する団体である。
学会に尽くし、広布を開き、尊き同志を護りゆく時、すべての行動は大福徳に変わる。栄光の人生を開く力となる。
そのことを、深く確信していただきたい。

「鍛えの夏」「挑戦の夏」「大成長の夏」は真っ盛りである。
創価大学では、学びゆく友が生き生きと集う、通信教育部の夏期スクーリングが素晴らしき伝統となっている。
猛暑のなか、真剣に向学の汗を流される皆さま方に、心からの賞讃を送りたい(大拍手)。
〈夏期スクーリングは海外21カ国・地域からも受講。6日から20日まで行われ、6000人を超える友が参加した〉
私も若き日、戸田先生のもとで働きながら、毎日毎日、学びに学んだ。
先生から直接、万般の学問をご教授していただいた。「戸田大学の優等生」であったことが、私の最高の誇りである。

さらにまた、8月下旬には、広く市民の方々に開かれた伝統の夏季大学講座も行われる。
〈今年は第34回。25日から27日に行われる〉
かつて私も、第1回(1973年=昭和48年)、第2回(74年)の講座に招かれ、講演させていただいた。
第1回のテーマは「文学と仏教」。その折、取り上げた一つが、「徒然草」であった。
「枕草子」などと並んで、日本文学史に光る名随筆である。
きょうは、求道の友と、緑の木陰で、涼風に吹かれながら懇談するような思いで、「徒然草」などをめぐり、また懐かしき恩師の指導を通して語り合いたい。

「徒然草」という標題の由来は、有名な序段の一文にある。
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
(所在なさにまかせて、終日、硯に向って、心に浮かんでは消えてゆくとりとめのないことを、気ままに書きつけていると、ふしぎに物狂おしくなる)
〈以下、徒然草の原文と現代語訳は三木紀人訳注『徒然草』講談社学術文庫による〉
闊達な筆致。序段と243の章段で取り上げられた話は、実に多岐にわたる。そこには当時の風習が息づき、人間への洞察がある。説話あり、史実や迷信の究明あり、建築論あり。すべて簡潔明快に記されている。
作者は鎌倉末期の歌人・兼好。1283年(弘安6年)ごろに生まれたと推定される。これは、日蓮大聖人の御入滅の翌年に当たる。
代々の朝廷に仕えてきた家で、兼好は、宮仕えののち、30歳ぐらいで「遁世」する。すなわち、官職などから離れ、隠遁生活に入った。
鎌倉幕府が滅び、南北朝、室町時代へと移りゆかんとする激動の時流を見すえながら、不朽の文字を綴り残していった。
兼好は、歌人としても活躍し、貴族や足利家の武将とも交流した。当時を描いた「太平記」にも兼好の名が登場する。

徒然草の成立時期は、いつであったか。
諸説あるが、1330年(元徳2年)ごろ、兼好が50歳前後の時期とも言われている。
ちなみに、その3年後の1333年は、鎌倉幕府滅亡の年。第三祖・日目上人の御入滅の年でもあった。
兼好は長命で、1352年(観応3年)以降に死去したと言われる。
じつは、兼好の生きた当時、この徒然草の存在は、ほとんど知られていなかった。
1448年、室町時代の歌人・正徹とその弟子が、いくつか世に存在した徒然草の写本を読み、その真価を見いだして、世に知らしめたのである。
兼好の死後、100年を経てはじめて、「徒然草」は正当な評価を得たといってよい。
そもそも徒然草では、読書について、「見ぬ世の人を友とする」営みと言っている。兼好も、目先の毀誉褒貶を超えて、未来の友を見つめつつ、筆を振るっていたのかもしれない。
戸田先生は、よく語っておられた。
「百年先、二百年先の人びとから仰がれゆく人生を生き抜け!」と。
私は、創価の人間主義の連帯を、世界190力国・地域に広めた。牧口先生、戸田先生を全世界に宣揚した。尊き同志の皆さまとともに。
これこそ、恩師の仰せ通りの、〝百年、二百年先の人々から仰がれゆく〟歴史の劇であると確信してやまない(大拍手)。

徒然草は室町時代以降、愛読された。特に江戸時代の初頭に深く浸透し、80年余りの間に、10数種類もの注釈書が書かれたという。
作者・兼好への関心も高まり、次々と伝記物語が誕生した。
有名な近松門左衛門も、兼好にちなんだ『つれづれ草』『兼好法師物見車』という浄瑠璃を創作している。

群馬出身の日寛上人も、文段のなかで、徒然草を引用されている。
「妙法尼御前御返事」の文段で、「老いたるも若きも定め無き習いなり」(老いた者も若い者も、いつどうなるか分からないのが世の常である)との御聖訓に関して、次のように記されている。
「徒然草の四十九段に云く『速やかにすべき事をゆるくし、ゆるくすべき事をいそぐなり』と」
すなわち、早急にすべきことを後回しにし、後にすべきことを先にしている。そのうちに、一生は過ぎ去ってしまい後悔する ── というくだりである。
優先すべきことは何なのか。それを知れ。まず、それをなせ。さもないと、悔いを残すぞ。そう戒めているのである。
兼好は、次のようにも綴っている。
「一生のうちで、とくに望むことの中でどれがたいせつかと、よく思い比べて、いちばんたいせつなことを思い決めて、それ以外は断念して一つの事に励むべきである」
「一つの事をかならずし遂げようと思うなら、他の事がだめになるのを残念がってはならない。人の嘲りを気にしてもならない。万事を犠牲にしないかぎり、一つの大事が成るはずはない」(第188段)
人生の一大事とは、何か。
それは、永遠に崩れない、絶対的幸福をつかむことだ。嵐にも揺るがない、不動の自分を築くことだ。その根本の力は、妙法である。
妙法を唱え、広めて、自分も、人も、幸福になる。全人類の宿命を転換する。それを広宣流布という。
戸田先生は言われた。
「人間は、権力や金のために汲々とするか、信念のために死ぬか、どちらかである。
大理想に生きて、そのもとにわれ死なん、というすがすがしい気持ちで諸君は行け」
何のために生きるのか。その一点を忘れてはならない。

第92段に有名な一文がある。
「ある人が弓を射ることを習うのに、二本の矢を手にして的に向かった。
すると、その師が『初心者は、二本の矢を持ってはならない。後の矢をあてにして、初めの矢を射る時に油断が生ずるからだ。毎回、失敗せずに、この矢一本でかならず当てようと思え』と言った。
わずか二本の矢しか持たず、しかも師匠の前で彼が一本の矢をおろそかにするつもりはあるまい。
しかし、二本の矢に現われた心のゆるみは、本人は気付かなくても、師匠がそれと洞察したのである」
師匠は、弟子の心がよくわかるものである。
これは万事に通ずる。師匠ありてこそ、本物となる。その道の〝達人〟となれるものだ。
いわんや、仏法は、最高の人間道である。師弟こそ、仏法の根幹であり、学会の土台である。
師匠の一言一言を大事にして、将来にわたる指針とするのだ。そこに、師の精神は永遠に生きていくのである。
第92段は、こう結ばれている。
「ただ今の一念において、ただちにする事のはなはだ難き」
(その事を思い立った瞬間にすぐに実践するということは、なんとむずかしいことだろう)
「あとでやろう」と先延ばしにするな。やるべきことを、今、この時に直ちになせ、というのである。
創価学会は、「臨終只今」の一念で、真剣勝負の行動に徹してきた。
だから、ここまで発展してきたのである。

中世の動乱のなかを生きた兼好。社会の現実をえぐる目は鋭い。
第73段「世に語り伝ふる事」には、現代にも通じる、重要な戒めが残されている。
はじめに、「ほんとうの話というものがおもしろくないからか、世間で語り伝える話は、ほとんどがまったくのうそである」 ── 兼好は、そう指摘する。
そして、年月がたち、その嘘が文字として書き記されてしまうと、「それが事実として定着してしまう」というのである。
これが嘘、デマの本質である。そして、こう綴られる。
「いかにももっともらしく、所々をぼかして、よくは知らないふりをして、そのくせ、話のつじつまを合わせて語るうそは、ほんとうらしいだけに恐ろしいことである」
「だれもがおもしろがるうそは、ひとりだけ『そうでもなかったのに』と言っても仕方ないので、聞いているうちに、黙認したばかりか証人にまでされて、いよいようそが事実のように定着してしまいがちである」

卑劣な嘘を放置しておくことは、人々の心に〝毒〟を流してしまうことである。
傍観は悪である。迅速かつ徹底して追撃し、根を断ち切ることだ。
そうでなければ、苦しむのは庶民であり、民衆である。
戸田先生は明快に仰せになられた。
「日蓮大聖人の仏法は、邪悪な権力と戦う、庶民のための仏法である。
ゆえに学会は、いかなる時代になろうとも、どこまでも庶民の味方になり、庶民を立派に育て、守っていくのだ。そうすれば学会は永遠に栄えていく」
さらに、こう厳しく言い放たれた。
「今は民主主義である。民衆が主人なのだ。いかなる権威の人間も、民衆に仕えるためにいる。それを逆さまにするな! 」
民衆が主人。民衆が主役。その時代をつくるために、学会は立ち上がった。
戸田先生は、増上慢になった人間たちには、容赦しなかった。
「この崇高なる仏法の世界を見下ろすとは、何事か!
どんなに社会的に有名になっても、折伏し抜く闘士、仏法を行じ抜く英雄の心を失えば、一つも偉くない。
君らは畜生根性に成り下がったのか!」
有名で、地位や学歴があり、世間でもてはやされる人間が偉いのか。
とんでもない。それは仏法の位とは、まったく関係ない。
また、戸田先生は、「自分は陰にいて、人を立てることのできる人が、偉いのだ」とも、よく語っておられた。
そして、陰で広布を支える方々への感謝と励ましを忘れなかった。
「常に自分の目にふれる範囲だけに気を配っていればよいという考えだけであっては絶対にならない。
目に見えない陰の分野で活躍している人達にこそ、こまかく心を配り、励ますことを忘れてはならない」
「現実に、地道な苦労をしている陰の人をこそ、最大に尊敬し、守っていかねばならない」
陰の人に光を ── 先生は何度も、この急所を教えてくださった。

戸田先生は、厳然と言われた。
「恩を仇で返すやつは、人間として極悪だ。そんなやつは人間として最低だ。そんな人間になるな。そんな人間とは、絶対につきあうな!」
生涯、恩を返していくのが人間の道である。
私は戸田先生との誓いのままに生きた。わが青春のすべてをかけて師弟の道に生き抜いた。
1947年(昭和22年)の8月14日。戸田先生と初めて出会った。
19歳の夏だった。
先生は「私の弟子になれ!」。私は「はい、なります!」。そんな心と心の語らいの瞬間だった。劇的だった。
以来、約60年 ── 。
私はずっと、戸田先生と一緒である。
本気で「師弟の道」を進む人間が、ただ一人いればよい。
戸田先生には、私という弟子がいた。
先生は、私を命がけで薫陶してくださった。
「大作さえいてくれれば、あとは学会は栄えていく」と言われていた。
戸田先生は幸せだった。大満足の人生であられた。それは、私が一人、先生をお護りしたからである。これが本当の師弟である。厳粛な師弟の世界である。

師匠のため、同志のため、広宣流布のためか。それとも、自分だけのため、私利私欲のためなのか。
それを徹して峻別しなければならない。
戸田先生は叫ばれた。
「広宣流布の行動をしているように見せながら、すべて自分自身の利害のために動いている人間は、私の敵である」
私は、この年代になって、毎日、戸田先生のことを忘れないで生きていられる。
本当に幸せだ。
毎日、先生と一緒である。
毎日、心の中で、先生と対話しながら、未来への勝利の道を開いている。
これが本当の師弟不二である。不思議なる一体の闘争なのである。
この崇高な師弟の精神を根幹とする限り、学会は強い。壊れない。
師弟を忘れたら、破和合僧が始まる。そこには、もはや仏法はない。
師弟の心を分断しようとする悪とは、猛然と戦え! 打ち砕け! それが、学会が永遠に発展しゆく根本の道である。