2015年8月7日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 8月 7日(金)08時02分10秒 通報 編集済 ■ 無量の菩薩が大地から登場 斉藤: では、経文の流れを見ていきたいと思います。 須田: 章のタイトルとなっている「従地涌出」とは、“釈尊の入滅後の正法の弘法者”が、大地の割れ目から涌いて出現したという意味です。地から涌出した菩薩なので地涌の菩薩と言います。 名誉会長: 滅後とは、末法万年です。永遠性の未来ということです。はるかなる未来の果てまで、人類をどう救っていくのか。この大いなる責任感が、法華経には込められている。その責任と慈悲と智慧を体現しているのが、地涌の菩薩です。人類の境涯を高める偉大な救済者群像です。その先駆が私どもなのです。すごいことだ。すごい使命の人生です。 遠藤: 地涌の菩薩は、涌出品の冒頭に出現します。ここまで、法華経の法師品(第十章)から安楽行品(第十四章)にかけては、釈尊が滅後の弘教を誰に託すかが中心テーマでした。声聞たちは(未来に成仏すると)記別を受けたのにもかかわらず、大変な娑婆世界を避けて、他の国土での弘通を望んでいます(笑い)。 それに対して、菩薩たちは、勧持品(第十三章)で「三類の強敵が出現しても耐え忍び、弘教に励みます」とまで誓願しています。誰の目にも、これらの菩薩に妙法流布のバトンが譲られるだろうと思わせておいて、迹門が終了します。 須田: そこで涌出品の冒頭では、他方の菩薩たちが、釈尊滅後に娑婆世界で妙法を弘めることを誓います。十方世界、すなわち全宇宙から集ってきた最高峰の菩薩たちの誓願です。釈尊が彼らに付嘱するだろうと、誰もが思うような展開となっています。 斉藤: ところが釈尊の本門の第一声は、誰もが予期していない言葉だった。「止みね善男子」。あなたたちが法華経を護持する必要はない、と。 その時、虚空会に衝撃が走ったのでは、と思わず想像してしまいます。心臓が止まるような思いというか、皆、釈尊の言葉に我が耳を疑ったことでしょう。ところが、それに続く釈尊の言葉はさらに皆を驚かせました。 須田: ええ。釈尊は続けて語ります。「なぜならば、この娑婆世界に六万恒河沙の菩薩たちがいる。彼らが弘めてくれるからだ」と。その時です。娑婆世界の全国土が震裂し、そこから無量の地涌の菩薩たちが出現します。その姿は余りにも荘厳です。身は金色に輝き、三十二相(仏が具える三十二の理想的特徴)を具え、無量の光明を放っている。 名誉会長: 劇的な場面だね。じつに、ドラマチックな登場です。大地が割れ、無数の菩薩が同時に出現する。しかも、一人一人が黄金の輝きを放っている。一切経のなかで、地涌の菩薩ほど絢爛たる菩薩はないでしょう。あらゆる仏国土から集まった迹化・他方の菩薩ですら驚嘆している。 大聖人は、虚空会の大衆の中に地涌の菩薩が出現した姿を、あたかも“猿の群れの中に帝釈天が出現したようなもの”と誓えられている。経文にも地涌の菩薩がどれほど尊いかを説かれているね。 須田: はい。それぞれの姿は「志念力堅固にして 常に智慧を勤求し 種種の妙法を説いて 其の心畏るる所無し」(法華経 p487)、「善く菩薩の道を学して 世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経 p492)、「難問答に巧みにして 其の心畏るる所無く 忍辱の心決定し、端正にして威徳あり」(法華経 p493)などと、描かれています。 遠藤: まるで仏の姿そのものですね。 斉藤: ある意味で、仏以上だったかもしれません。人々の目には、地涌の菩薩が人生経験の豊かな百才の老人だとすれば、釈尊は二十五歳の若者に過ぎないと映ったほどですから。大聖人は、この地涌の菩薩の姿を、「巍巍堂堂として尊高なり、釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善智識ともたのみ奉りぬべし」(御書 p211)と仰せです。(巍巍とは、高く大きいさま) ──────────────────────────────────────── 涌出品から 「娑婆世界の三千大千の国土、地皆震烈して、其の中より無量千万億の菩薩摩詞薩有って、同時に涌出せり。是の諸の菩薩は、身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり。先より尽く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在って住せり。是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて、下より発来せり。一一の菩薩、皆是れ、大衆の唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を将いたり」(法華経 p474) 娑婆世界の三千大千の国土は、大地が皆、地震によって裂けて、その中から無量千万億の菩薩が、同時に涌き出した。この菩薩は、身は皆金色であり、三十二相を具え、無量の光明を放っていた。以前から、ことごとくこの娑婆世界の下の虚空の中にいて、とどまっていたのである。この多くの菩薩は、釈迦牟尼仏が説かれた音声を聞いて、下から現れてきたのである。一人一人の菩薩は、皆、大衆を導く指導者である。それぞれが六万の恒河沙(ガンジス河の砂の数)等の仲間をひきいていた。 ──────────────────────────────────────── 名誉会長: 大山のようにそびえ立って、すべての人々の拠り所となる真のリーダーということだね。 須田: 一人一人の菩薩は皆、大衆のリーダー(唱導の首)であり、それぞれ六万恒河沙の眷属(仲間)を率いています。あるいは、五万、四万、三万恒河沙から千、百、十人などの眷属を率いて出現します。 一恒河沙は、インドのガンジス河の砂粒の数です。六万恒河沙はその六万倍の数ですから、到底、計算できません。スーパーコンピューターでも無理かもしれません(笑い)。 遠藤: 眷属とは、狭くは仏の親族を指しますが、広く言えば仏の教えを受ける者すべてを指します。 名誉会長: そう。地涌の菩薩の出現は、決して無秩序ではない。勢いよく、自由奔放でありながら、なおかつ整然たる行進の姿です。 ある意味で、理想的な組織の姿とも言える。 斉藤: 創価学会の組織は仏勅の組織であるとよく言われますが、その意味を深くかみしめなければならないと思います。 須田: 地涌の菩薩たちは、まず宝塔の中にいる釈尊と多宝如来のもとに詣で、次に十方の世界から集ってきた無数の仏たちの所へ行って、それぞれの仏をさまざまな形で賛嘆します。無数の地涌の菩薩が無数の仏に挨拶するのですから時間がかかります。経文には「五十小劫」という長い長い時間がかかったが、釈尊の神通力で、会座の人々には「半日」のように思わせたとあります。 遠藤: よほど充実した時間だったのでしょうね。退屈だったら一時間でも無限のように感じます(笑い)。 Tweet