投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 7日(金)18時17分11秒     通報
■ 荘厳な師弟の姿に驚く

名誉会長: 地涌の菩薩が最高の儀礼によって仏を賛嘆するのは、じつは師弟不二の「永遠の生命」を賛嘆しているのです。“永遠即今”の充実した一瞬一瞬を生きているのが仏です。地涌の菩薩も、本当は “ 永遠即今”を生きる仏です。「仏」と「仏」の出会いです。だから楽しいのです。だから五十小劫も長くはないのです。
このあと、地涌の菩薩を代表して、四人の大リーダーたち —- 上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が釈尊と対話を始めるが、その話題は民衆救済という大目的についてだね。

須田: はい。彼らは釈尊に合掌して、こう語りかけます。「世尊よ、少病少悩であり、安楽であられるでしょうか」と。

斉藤: これは仏に挨拶する時の一種の決まり文句のようです。十方の諸仏が集まった時も、釈尊に同様の挨拶をしています。ただ、四菩薩は続けて、「いま救おうとされている者たちは、たやすく導くことができるでしょうか。世尊を疲れさせてはいないでしょうか」と尋ねています。

名誉会長: 釈尊の身を心から案じている姿が表現されている。釈尊に甘え放題で、時には疑ったり文句を言ったりする声聞達たちとは態度がまったく違うようだね(笑い)。
次元は違うが、私もいつも戸田先生のご健康を気にかけていた。会えば必ず、お疲れではないか、ご気分はどうか、それはそれは気を遣ったつもりです。そして、戸田先生はそれ以上に私の健康を気遣ってくださった。汗が出ている時など、「大、早くシャツを着替えなさい。カゼをひく」と言ってくださった。ありがたい師匠でした。
地涌の菩薩と釈尊の会話では、お互いの心と心が通いあっている様子がうかがえる。一幅の名画のようだね。

須田: ええ。釈尊は、「決して疲れてはいない。衆生を導くのは易しいことです。この諸の衆生は、過去世以来、私の化導を受けてきたのです。皆、私の教えを聞いて、仏の智慧に入ったのです」と答えます。
大丈夫、心配するな、必ず皆を救ってみせるから —- という大音声です。
地涌の菩薩は釈尊を称えます。「素暗らしいことです。偉大な英雄である世尊よ。私たちも随喜します」と。随喜の心を起こす地涌の菩薩たちを釈尊もまた称ています。

遠藤: こうした対話を見て、驚いたのは,ずっと法華経の会座にいる弟子たちです。今まで見たことのない光景が次々と繰り広げられる。宝塔が出現し、十方の諸仏が集い、虚空会が行われた。これ自体、未曾有のことです。それでも何とか理解し、信じようとした。私でしたら、ここに至って頭の中が真っ白になったかもしれません(笑い)。

斉藤: その大衆の驚きを代表して、弥勒菩薩が釈尊に質問します。「この無量の菩薩たちは、昔から今まで見たことがありません。世尊よ、どうかお話しください。彼らはどこから来たのでしょうか。何の因縁によって集まったのでしょうか」と。

名誉会長: 有名な“弥勒の疑請”だね。この弥勒の“大いなる問い”が、釈尊が寿量品という真髄の教えを説くきっかけになっている。質問が大事です。だから釈尊は、「素晴らしい、素晴らしい。弥勒よ、あなたは仏にそのような大事なことを質問した」と称えた。

斉藤: 他方の国土から来た分身の諸仏に仕える侍者たちも、それぞれ自分の師である諸仏に弥勒と同じ質問をします。「地から涌き出た、この菩薩たちは、どこから来たのでしょうか」と。諸仏は侍者たちを、こう諭します。
「しばらく待つがよい。あの弥勒菩薩は、釈尊に授記された弟子であり、釈尊に次いで、後に仏になる人である。仏は今、その弥勒の質問に答えられるであろう。よく聞いていなさい」。

名誉会長: この表現も面白いね。釈尊に縁の深い菩薩や声聞たちのなかでも、弥勒が質問したことに深い意味がある。

斉藤: 弥勒は一生補処の菩薩と言われ、釈尊の次に仏になるとされた菩薩です。釈尊の高弟の中の高弟です。その弥勒が質問したということは、迹門までの教えでは、未解決の大いなる問題が残されているということですね。

名誉会長: そう。一切衆生の中に仏の生命があることがわかって、成仏の記別を受けても、それだけではまだ不十分だったということです。寿量品の久遠実成(釈尊が久遠の昔に成道したこと)が明かされなければ、一切衆生の成仏の道は「絵に画いた餅」に過ぎないからです。
そのことは詳しくは後に論じることにするが、ともかく釈尊の久遠の生命を明かすためには地涌の菩薩の出現が不可欠だった。弥勒の質問をきっかけとして、真実の教えが説かれていくわけです。

須田: その後、釈尊の口から語り出された答えは、もっと驚くべきものでした。遠い昔から、この娑婆世界で自分が教化してきたのが、この地涌の菩薩だと明かしたからです。

遠藤: 「私は久遠よりこのかた、これらの大菩薩を教化してきたのである(我久遠より来 是れ等の衆を教化せり)」(法華経 p488)の一節ですね。
天台は、この「我久遠より来 —- 」の文を「略開近顕遠」と呼んでいます。寿量品で明かされる「開近顕遠(近=始成正覚を開いて、遠=久遠実成を顕す」が、涌出品でほぼ(略して)明らかにされたという意味です。

須田: これは大変なことです。弥勒をはじめ会座にいた人々は皆、それまで、釈尊は菩提樹の下で初めて成道したと信じています。
今まで歴劫修行してきた結果、今世で初めて成仏したと誰もが思っていた。いわゆる「始成正覚(始めて正覚を成ず)」です。

斉藤: まだ、ここで久遠実成の全体像は明かされていませんが、始成正覚の考え方と決定的に矛盾します。

須田: 誰も見たことのない地涌の菩薩という釈尊の弟子が眼前にいるのですから、自分たちの理解を超えています。
今まで信じていたものが、がらがらと音を立てて崩れていく。まるで立っている大地をひっくり返されたような衝撃でしょう。

斉藤: この驚きが「動執生疑」ですね。自分たちの執着を打ち崩され、大きな疑問が生じた。弥勒は、そんな皆の心を代表して再び問います。 —- 世尊は王宮を出て出家され、悟りを開かれてから四十余年になったばかりです。このわずかな期間でこのような無量の大菩薩を教化されたとは、とても信じ難いことです。
たとえば、若々しい二十五歳の青年が、百歳の老人をさして「これは我が子である」というようなものです。私たちは、仏の言葉を信じています。しかし、後に新しく発心する菩薩たちが、仏の滅後にこの教えを聞いたなら、信受せずに法を破る因縁を作ってしまうかもしれません。願わくは、彼らのために詳しく解説して、私たちの疑いを、除いてください —- と。この弥勒の問いかけで、涌出品は終わっています。

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(涌出品から)
「如来今、諸仏の智慧、諸仏の自在神通の力、諸仏の師子奮迅の力、諸仏の威猛大勢の力を顕発し宣示せんと欲す」(法華経 p484)

如来は今、多くの仏の智慧と、多くの仏の自由自在の神通力と、多くの仏の師子奮迅の力と、多くの仏の威力ある大勢力を顕し発して、述べ示そうと欲している。