投稿者:KS部OB    投稿日:2015年 8月 7日(金)00時21分40秒     通報
【各部合同研修会】(2006・8・2)

「一騎当千」という言葉は、どこからきているか。
それは「一人当千」という言葉からである。
釈尊が入滅する直前に説いた涅槃経に、如来の力を讃えた「一人当千」という言葉がある。
「大力士有らん。其の力 千に当り、更に能く之を降伏する者有ること無し。故に此の人を一人当千と称す」(岩野真雄編『国訳一切経印度撰述部 涅槃部一』大東出版社、現代表記に改めた)
すなわち、だれ人たりとも倒すことのできない、千人力の偉大な力士を「一人当千」という。
その大力士のごとく、はかりしれない智慧で四魔を降す無敵の存在こそ、仏であるというのである。
まさに「一人当千」「一騎当千」の力を発揮しゆく源泉こそ、仏法なのである。
広宣流布を成し遂げゆく仏法の師弟に、この「一人当千」「一騎当千」の力が涌現し、具足しないわけがない。
牧口先生は、「羊千匹より、獅子一匹たれ」と叫ばれた。
いわんや、リーダーの皆さま方は、この創価の師弟の道に直結して、一人が「一千」、否、「一万」にも匹敵する師子王の大力を出し切っていくことだ。その生命の勢いと気迫が大事である。
新しい人材を、新しい青年を、きら星のごとく育て、新しい広宣流布の圧倒的な勝利、勝利の時代を断固とつくろう! そのための各部合同研修会である(大拍手)。

法華経の法師品に、「仏を讃嘆すれば、無量の功徳を得るであろう。法華経を受持する者を讃嘆すれば、その福徳はまた、それ以上であろう」とある。
末法の悪世において「法華経を受持する者」とは、いうまでもなく、別しては、末法の御本仏たる日蓮大聖人であられる。
総じては、日蓮大聖人と「同じ心」で、広宣流布に進みゆく、地涌の菩薩の我々なのである。
本当に広宣流布のために戦っている人は、だれなのか。
その人を、どこまでも大切にせよ! 最大にほめ讃えよ!
その功徳は無量無辺である ── それが法華経の心である。

大聖人は、この法華経の文を引かれた「国府尼御前御書」の中で、大難にも屈せず、懸命に大聖人をお守りし、けなげな信心を貫いてきた女性門下を最大に讃えておられる。
わが学会も、「創価婦人学会」といってもいいくらい、婦人部の皆さんが、広布の一切を担ってくださっている。本当に頭が下がる思いである。
男性幹部は、心して、婦人部、そして女子部の皆さんを、尊敬し、大切にし、讃嘆していかねばならない。
さらに学会は、警備や設営、救護、整理・誘導など、陰の立場で奔走してくださっている多くの方々に支えられている。
仏法の指導者は、そういう方々の労苦をきちんと賞讃し、それに報いていくことだ。その心が幹部にあれば、学会は、今の10倍の力を発揮することができる。

今の季節になると、「水滸会」の野外研修を思い出す。
第1回の野外研修は、奥多摩の氷川のキャンプ場であった。キャンプファイアーをして、恩師と語り過ごしたひとときは永遠に忘れられない。
この師弟有縁の天地に立つ氷川東京青年研修道場では、この夏も、はつらつと研修や見学会などが行われている。
また、全国の会館や研修道場の役員の皆さま方にも心から感謝申し上げたい(大拍手)。

「水滸会」では、毎回、古今東西の名作などを読み合った。
その一つに、会の名前の由来ともなった『水滸伝』がある。
その中で、ある登場人物が、古人の言葉を引いて、こう語る。
「恩を知って返さぬは人でない」(吉川幸次郎・清水茂訳、岩波文庫)と。
まったく、その通りである。
大聖人の「聖愚問答抄」の一節を拝したい。
「世に四恩あり之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす」(御書491ページ)
── 世の中には、四つの恩がある。これを知る者を人倫(=人の道に適った人間)と名づけ、知らない者を畜生というのである ── と。
恩を知るのが、人間である。恩を知らないのは、畜生である。
これは大聖人の御金言である。恩知らずは、人間を名乗る資格はないのである。
私たちは、絶対に恩知らずになってはならない。御書に仰せの通りに実践していかなければいけない。これが根本である。

現代文明に鋭い批評を浴びせた20世紀スペインの哲学者オルテガは言う。
「恩しらずな人間は、彼の所有するものの大部分が自分で作りだしたものではなく、それを創りだしたり、手に入れるために努めた人びとから譲り受けたものであることを忘れている」(桑名一博訳「観念と信念」、『オルテガ著作集8』所収、白水社)
本質を突いた言葉である。
学歴や肩書の虜となって、人の恩に気がつかない者もいる。社会的に偉くなり、増上慢になって、お世話になった人の恩を忘れる者もいる。
さらには、最も大切にすべき恩人に嫉妬し、憎悪して、恩を仇で返す大悪人もいる。
「嫉みは最も危険な悪徳である」「嫉みがすべてのより良きものを抑えようとする」(飯島宗享・細尾登訳『ヤスパース選集16 現代の政治意識(下)』理想社)とはドイツの哲学者ヤスパースの至言であった。
こうした醜い嫉妬と忘恩の輩に、清らかな学会の世界を断じて汚させてはいけない。
恩知らずの者が、学会を利用し、信心を利用して、学会員を踏みつけにしたり、苦しめたりするのを絶対に放置してはならない。
不知恩と戦うのが信心の指導者である。
戸田先生は、恩を忘れた者には厳しかった。
ある時など、「忘恩の師子身中の虫は、叩き出せ!」と激怒して叫ばれた。
大聖人は、「不知恩の人なれば無間地獄に堕ち給うべし」(御書895ページ)とも仰せになっている。
これまで私も多くの人間を見てきたが、忘恩の者の末路は、例外なく御聖訓通りの哀れな姿であった。だからこそ厳しく戒めていくのである。

御書には「仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」(192ページ)とある。
戸田先生は、「恩を返すのが最上の人間だ」とも言われた。
報恩の人生は美しい。お世話になった人に恩返しをしていこうという心が、一番、自分を成長させる。限りない向上のエネルギーとなっていく。
報恩の人こそ、人生の勝利者である。
そしてまた、広宣流布に生き切ることが究極の「報恩の道」となることを忘れてはならない。

「最蓮房御返事」には「師弟契約御書」との別名がある。
このなかで大聖人は、法華経の「もし仏の教えを説く師に親しみ近づくならば、すみやかに菩薩の道を得るであろう。この師に随順して学ぶならば、ガンジス川の砂の数ほど多くの仏を拝見することができるであろう」との一節を引かれている(同1340ページ)。
いかなる師につくのか。それで、すべてが決まる。ゆえに、正義の師に随順せよ。悪師は遠ざけよ。それが大聖人の厳命である。

正義の師匠を守ることが、弟子である私の戦いであった。
戸田先生の事業が破綻し、一人、二人と去っていった時も、私は、ただ一人、先生のもとで働いて働いて働き抜いた。
先生が75万世帯の願業を掲げられた時も、幹部の中には、「戸田先生はずいぶん長生きをされるのだな」と他人事のように思っている者もいた。
ただ一人、私が猛然と立ち上がった。
「断じて先生を守るのだ!」「先生のご指導のもとに一致団結するのだ!」「先生と一緒に広宣流布をするのだ!」
── この強き一念で、同志を糾合し、先生を中心とした完壁な異体同心の団結を作り上げた。そして怒濤のごとく前進したのである。
戸田先生はしみじみと言われた。
「私の心を分かってくれるのは、大作一人だな」と。
その言葉だけで、私は幸せだった。先生に信頼していただける戦いができたことが、私の青春の誇りであった。
この「師弟の闘争」があったから、学会は勝った。世界的になった。
もしも、この心がなくなれば、衰亡は避けられない。
だからこそ、「師弟に生き抜け!」とリーダーの皆さんに訴えたいのである。

戸田先生だったら、どうするか。戸田先生なら、なんと言われるか。先生であれば、どう手を打たれるか。
私は、つねにそう考えながら、広布の指揮を執っている。
戸田先生は、どこかで広布の重要な会議が行われていると聞くと、「今、何をやっているのか」と、必ず尋ねられたものだ。私は、先生の質問に、すぐ答えられるよう、つねに万全の準備をしていた。
それが学会の師弟の呼吸である。

きょうは、素晴らしい青空が広がっている。
戸田先生が、「晴れの日であれば、晴れの日は何をするのか、それを考えよ。晴れの日も、雨の日も、曇りの日も、同じことをするのは愚かである」と言われていたことを思い出す。
機に臨み変に応じて、最も価値的な行動を起こしていくことが大事である。
日々の真剣な祈りによって「随縁真如の智」を湧き出していくならば、私たちは、悠然とこの現実社会を勝ちきっていくことができる。

戸田先生は、昭和33年(1958年)2月11日、最後の誕生日の日に、こう厳しく指導された。
「幹部の自覚が根本である。一般会員の責任ではない。幹部の信心、成長で全ての組織の発展が決定されるのだ」
このお言葉を、私は厳然とその日の日記に記した。先生の精神を、後世に過たず伝えるために。
幹部の成長が、組織の発展を決める。組織を伸ばすには、幹部自らが、だれよりも祈り、だれよりも戦い、だれよりも成長することである。

戸田先生は、広布の前進に当たって、明確な「数」を目標として掲げられた。
数学者としても有名だった先生は、この「数」の持つ意味についても、しばしば指導してくださった。
これまでも何度か紹介したが、「創価学会は、地球上で最も尊厳な生命を守り、どれだけの人に妙法を受持せしめ、幸せにしたかということを数えるのである」と言われていた。
あの歴史的な第2代会長の就任式では、「私が生きている間に、75万世帯の折伏は私の手でいたします」と先生は叫ばれた。
この「75万」にも、甚深の意義が込められていたのである。それは、単なる数ではない。先生の深き誓願と一体の「数」なのである。

戦後、ほぼ壊滅した創価学会を再建なされた先生のご苦労は、並々ならぬものであった。
しかし先生は、忍耐強く、一人また一人に光を当て、法を説き、励ましを重ね、広布の陣列を広げてこられた。
「忍耐が大成の礎である」とは、戸田先生の信念であった。
「忍耐」なくして、成し遂げられた事業はない。
全世界に広がった広宣流布の進展の陰に、どれほどの忍耐があったことか。賢明な皆さんは、深く理解していただきたい。

戸田先生の弟子として、私は、先生の誓願を実現するためには、どんな苦労をも忍ぶつもりであった。
もともと体が弱かったため、激しい闘争に疲労困憊したが、先生とともに戦う喜びに、命は踊っていた。
行く先々で、拡大のうねり、躍進の上げ潮をつくっていった。
当時は、それぞれの支部が、競い合いながら、切磋琢磨し合いながら、拡大に取り組んでいた。
「進歩は競争の終わりと共に終わるのである」(中川誠訳『ハズリット箴言集 ── 人さまざま』彩流社)とはイギリスの文人ハズリットの言葉である。
大目的観に立った健全な競争は、全体を大きく進歩させていくものだ。

先日、お会いしたハリウッドの名優、オーランド・ブルームさんが、東西の創価学園に、直筆のメッセージを贈ってくださった。
そこには、「世界をより良くするのが真の人間だ」という言葉が記されていた。
これは、オーランドさんが主演した映画(『キングダム・オブ・ヘブン』)の中の言葉だそうである。
オーランドさんの真心に、心から感謝したい。
学園生にとって、どれほどの喜び、励みになるだろうか。学園生の喜びは、創立者である私の喜びである。
創価大学も、アメリカ創価大学も、日本そして海外各地の創価幼稚園も、同様である。
私は、私のつくった学校に来てくれた学生や子どもたちのためなら、どんなことでもしたいと思っている。どこにいても、彼らのことを忘れることはない。
生徒だけでなく、そのご両親、そのご家族の健康と繁栄を、毎朝毎晩、真剣に祈っている。
これが、創立者の心である。これが創価の魂である。

今朝、タイから連絡が入った。
それは、今月13日の教学初級試験のため、1万人に及ぶ受験者が、「聖人御難事」等を教材に、真剣に研鑽をしているという報告であった。
ヨーロッパでも、この秋、任用試験などが行われる。各地で、1万2000人のメンバーが、イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語などの各言語で受験する。
アメリカでも、10月に3万人の教学試験が行われる。
ブラジルでも2万人の教学試験が開催される。
戸田先生は、学会が創立以来、雄々しく「行学の二道」を邁進してきたことについて、「剣豪の修行を思わせるが如きその厳格なる鍛錬は、学会の伝統・名誉ある特徴となっている」と叫ばれた。
そして今や、この伝統は世界中に拡大した(大拍手)。
これが、今の世界広布の状況である。日本の最高幹部の皆さんは、こうした進展を、しっかりと認識し、受け止めていただきたい。
創価のリーダーには、世界と未来を大きく展望する視点と、時代を動かす鮮烈な行動がなくてはならない。
ぼやぼやしていると、世界の流れに取り残されてしまう。会員に、希望あふれる的確な指針が与えられてこそ、最高幹部である。
皆さんは、広布の要の存在である。
いくつになっても、最後の最後まで、みずみずしい学会精神を忘れてはならない。

新たな決意で、新たな創価学会を構築していく。今は、そのときである。
青年部の育成にも、より一層の力を入れていきたい。
青年部は、「師弟直結」でなければならない。師のもとで戦い、師のもとで訓練を受け、師の心を知り、師をどこまでも守り抜く。これが、戸田先生にお仕えした私の精神であった。これが、学会の師弟である。

女子部を育成しよう。女子部を、どんどん増やしていこう。
一人の女性が、どれほど大きな影響を、社会にもたらすか。
職場、家族、友人に。さらに結婚したときは、夫に、子どもたちに、連なるすべての一家一族に ── 。その波動は、大きく大きく広がっていく。
女子部の育成と拡大に、全幹部が心を合わせて取り組んでまいりたい。
女子部を軽んじてはならない。女子部を大切にしていかなければ、学会の未来はない。女子部の成長にこそ、未来の希望がある。

すべては、幹部の自覚と行動で決まる。
傲慢な言動、学会利用の利己主義の振る舞い、悪と戦わない卑怯な態度 ── もしもそういう幹部が出たら、どんどん声を上げていくことだ。
異体同心の団結で、「師弟の精神」と「会員第一の精神」が脈打つ、最高の創価学会を築いてまいりたい。
長時間、本当にありがとう!お元気で!
それぞれの地域に戻られましたら、同志の皆さんに、くれぐれもよろしくお伝えください。
一緒に戦おう!(大拍手)