投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 6日(木)18時35分39秒     通報
■ 言論の「法輪」を打ち出せ

遠藤: 安楽行品の最後の部分では、「髻中明珠の譬」が説かれています。
—- 転輪聖王は、兵士たちの武勲に対して、武具や田畑や家や財宝など、あらゆる物を褒美として与えた。ただし、髻(髪を頭の上で束ねた部分)の中の明珠だけは誰にも与えなかった。なぜなら、この明珠は、王の頭上に、ただ一つだけあり、もしこれを誰かに与えれば、家臣たちは大いに驚いて怪しむだろうからだ。
しかし、本当に大きな功労があった者には、王は喜んでこの髻中の明珠を与えるであろう。この転輪聖王と同じように、仏も、第一の法華経を長い間、誰にも与えず胸中に秘めてきた。それを今初めて、あなたたちのために説くのである —- と。

須田: 転輪聖王は、インドの理想の王です。法華経がどれほど偉大な、あいがたい教えであるかを譬えたものです。転輪聖王が明珠を誰にも与えなかったというのは、釈尊が真実の教えを説かず、ずっと爾前・権教を説き続けてきたことを示しています。

名誉会長: この転輪聖王は、車輪の形をした「輪宝」という武器をもっていた、とされるね。

斉藤: はい。これを転がして、悪を砕き、国内を統治するといわれています。「輪宝」は、戦車の車輪とも、敵陣に投げ込んだ武器ともいわれます。

名誉会長: 王が「輪宝」を転じたごとく、仏は「法輪」を転じるのです。王の輪宝がハード・パワーであったのに対し、仏の法輪は言論による最高のソフト.パワ-といえると思う。

斉藤: 「法輪を転じる」ことから、仏の説法を「転法輪」といいます。初の説法を「初転法輪」といいますね。

名誉会長: 仏教は本来、縦横自在の「対話」の宗教です。対話・言論という“武器”で平和のために戦っていくのです。
大聖人は転輪聖王について「わずかな間に、全世界をめぐる」(御書 p1042 趣意)と説かれている。
友から友へ、ここからかしこへ、国から国へと、「法輪」を次々に転じ、自由自在に弘めていく。
悪に対しては、破折の精神で、敢然と戦う。これが仏の闘争です。
以前、平和学の父ガルトゥング博士も、仏教の思想を「車輪」にたとえておられた。
仏教は本来、開放的であり、車輪が回転するように、つねに新しき知恵を発揮しながら、その時代その時代の問題に取り組んでいく —- と。

遠藤: 創価学会の運動も、まさに、この通りですね。

須田: 博士は、先生との対談でこう言われていました。「車輪は動いています。名誉会長は、車輪の動きのごとく、『行動』によって仏教の運動を発展させておられる。仏教思想の車輪を回転させることによって、『東洋』と『西洋』を結ぶ原動力を与えてこられたように思います」(1990年10月、京都で)と。

名誉会長: 仏教の教えそのものが、決して硬直していない。偏狭なドグマ性から自由であり、社会に開かれている。博士は、ここに注目しておられる。

須田: 仏教が、社会の中に生き生きと脈動する宗教であることを実感します。

名誉会長: 日々、それを実践しているのが学会の同志です。言論という「法輪」を回して、来る日も来る日も、社会に平和の価値を生み出している。これほど崇高な姿はありません。
一軒また一軒、こつこつと激励や弘教に歩く。一人また一人と、友から友に仏法を語っていく —- 。その行動こそ「転法輪」です。妙法を世界に転じ広げゆく「広布の転輪聖王」の行動です。その福運は永遠です。
「御義口伝」には「三世常恒に生死・生死とめぐるを転輪聖王と云うなり」(御書 p733)と仰せになっている。今、行動した分だけ、来世も、次の生も、また次の生も、あるいは社会の大指導者となり、あるいは大科学者となり、大文豪、大経済人、大学者となり、また庶民の無名の王者となり、あらゆる長者の姿をとって、妙法を根本に人々を救っていけるのです。
大聖人は「霊山浄土に安楽に行詣す可きなり」(御書 p798)と仰せです。生きている間も、死んでからも、喜びに満ち満ちて霊山浄土へ行ける。生きていること自体が楽しいということです。生も歓喜、死も歓喜ということです。そうなるためには、御本尊に唱題することが楽しい、友に仏法を語ることが楽しいとなればいい。勤行が苦しくて苦しくてというのではダメです(笑い)。御本尊が慕わしくならなければ信心はウソです。

斉藤: そうなれば本当に揺るぎない「安楽」ですね。

遠藤: 「難即安楽」という大聖人の教えは、そうした永遠にわたる大境涯を築くための王道なのですね。

名誉会長: 「大難」と戦って、生命を鍛えに鍛えて、屹然たる自分をつくり上げることだ。そこにこそ真実の「安楽」がある。ダンテの境涯革命の書『神曲』にこうある。
「この山を登ろうとする者、
その麓にて大きな困難に出会うであろう。
されど登るにしたがって困難は減じ、
おんみの辛苦は今ようやく愉しみとなる。
やがて登ることきわめてやすく、
小舟で急流を下るがごとくなるであろう。」(煉獄篇第四歌、草間平作訳、岩波書店)と。
「いざ登りゆけ、汝は雄々し」 —- こう呼びかけているのです。
山を登れば、自分の境涯も上がる。谷に下れば、楽かもしれないが、最後は苦悩の人生です。
絢爛たる創価の世紀の幕は上がり始めました。全同志が一人ももれなく、「広宣流布の山」という無上道を登攀しぬいてもらいたい。そして、汝自身の揺るぎなき「安楽」の境涯の王座を、晴れ晴れと勝ちとってもらいたい。それが私の祈りなのです。