投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 6日(木)08時01分26秒     通報
■ 我らの誓願は「人間を救え! 」

名誉会長: 戸田先生は、この「誓願」について、おっしゃっていた。
「(安楽行品の)誓願なんて、とってもノンキなものだよ。『もし、自分が仏になったら助けてやる』という、誓願を立てるのだ。そうなれば安楽だろう。折伏なんか、今すぐすることないから。『ワシが仏になったらそのときに縁を結んだヤツは助けてやる』と」
自分が仏になったら救ってあげようというのは、まだまだ無慈悲なのです。

遠藤: たしかに、誓願の経文では「自分が最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得た時に」人々を救うとあります。法華経を求めず信じようとしない人々を、「自分が悟った後に」救おうというのです。

斉藤: 本来は、一切衆生を救い尽くすまで自分は成仏しない」という強烈な誓願をもつのが真の菩薩ですね。

遠藤: それこそ、学会の同志だと思います。安楽行品の誓願とは比べものにならないほど偉大な実践をしています。草創の方々は、自分がどんなに貧しくて、苦しい生活をしていても、他人を救うために必死で正法を教えに歩いたのですから。

斉藤: 「この信心をしたら、絶対に幸せになれるのよ」と語っても、相手から「あんたが金持ちになったらやってやるよ」とバカにされ、ののしられ、追い返された。それでも、毅然として正義を叫びきってこられました。

名誉会長: あまりにも崇高です。自分のことなど後まわしにしても悩める人を救う。“それこそが真の菩薩なんだ。地涌の菩薩の心意気なんだ” —- 皆、この誇りに燃えていた。だから、身は貧しくとも、心は幸福であった。境涯は大富豪であった。慈悲の折伏をやりきった時点で、その相手よりも根本的な「安楽」の境涯になっていたのです。

斉藤: この素晴らしい「菩薩の行動」で、今日の大創価学会が築かれてきたのですね。

名誉会長: ロマン・ロランは叫んでいる。
「自分の魂が救われるか救われないかということにばかりこだわっていれば、救われることからかえって遠ざかる。君が君自身を救いたいなら、人間を救え! もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ! そうすれば、それ以外のたいせつなことはみな君につけ加わって来るだろう」(『内面の旅路』片山敏彦訳 みすず書房)と。
この究極を実践しているのが、我が地涌の同志です。「貧乏人と病人の集まり」と、ののしられながら、心は人間王者であった。じつは本来、仏でありながら、そういう姿をとって、妙法を証明してきたのです。
学会の世界は、地位でもない、学歴でもない、財産でもない、真の「人間としての偉大さ」を追求する世界なのです。

遠藤: 名もないご婦人が、大学教授に堂々と仏法を教えているといった光景も、学会ならではですね。

須田: 多くの人は、学歴や名声や財力があると、それだけで“偉い人”のように見てしまう。特に近年の日本は、外面だけで人間を“ランクづけ”しがちです。

遠藤: 政治家たちが、発展途上の国々を見下ろして傲慢な発言をするのも、同じ心理ではないでしょうか。

名誉会長: そういう「差別の心」が、子どもたちの世界にも「いじめ」となって深刻な影を落としていると言えるでしょう。

須田: こうした、がんじがらめの“序列社会”を根底から変革してきたのが学会の運動ですね。

斉藤: 日本がここまで硬直的な学歴社会になってしまった理由として、ある識者は、日本人が無宗教であることを挙げています。たとえば神の下に、だれもが「平等」に集い合うような信仰の場があれば、今日のような序列社会にはならなかったはずだと。

遠藤: 宗教の社会的な意義についての洞察ですね。

名誉会長: 仏法は「人間」そのものを見る。その人の「心」「生命」を見るのが、仏法です。
仏眼・法眼で見れば、仏教徒ではなくとも“菩薩界”の人がいる。反対に、仏教徒でも“外道”の人がいる。見かけは信心しているようでも、心は“餓鬼界”の人もいる。「何教徒か」を見るのではない、その人の生命が「何界か」を見るのが仏法なのです。
そして全ての人の中の仏界を開くための仏法です。
世間は「差別(差異)」の世界である。仏法は「出世間」です。出世間とは、あらゆる表面の差異を超えて、人間の「いのち」を見るということです