投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 5日(水)12時32分21秒     通報
■ 根源の一法を受持したゆえに「安楽」

遠藤: さて、安楽行品は、文殊師利菩薩が釈尊に「悪世において、どのように法華経を説いたらよいでしょうか」と質問するところから始まります。
釈尊はこれに答えて、「身」「口」「意」「誓願」の四つの安楽行を説いていきます。

須田: 簡単に言えば —- 。(1)「身安楽行」とは、身を安定させて悪縁を避け、静寂な所で修行すること。(2)「口安楽行」とは、他人や他の経典を、みだりにけなしたり、ほめたりせず、平穏な気持ちで説きさとすこと。(3)「意安楽行」とは、嫉妬や慢心やおもねりの心をいだかず、争論を避けて経を持ち、読み、説くこと。(4)「誓願安楽行」とは、大慈大悲の心で、衆生救済の誓願を立て、修行することです。

遠藤: この四安楽行は「方法」を説いていると天台は言っています(法華文句)。つまり、悪世のさまざまなことに心身を煩わされずに、法華経を弘めていく方法です。

斉藤: ベテランの菩薩(深行の菩薩)には、方法を教えるまでもないけれども、初心の菩薩(浅行の菩薩)には、方法を教えてあげないと、自行も化他行も全うできないとも天台は言っています。安楽行は初心者用の修行の“助け船”とも言えないでしょうか。

名誉会長: 安楽行品が「方法論」であるとすれば、勧持品は「精神」を説いている。その精神とは「不惜身命」です。我が身を惜しまず、正法を惜しむ心です。この「不惜身命」を安楽行品の根本と見なければ、それこそ“どうすれば楽に修行できるか”という底の浅い話になってしまう。
四安楽行の「安楽」とは、根本的には、妙法を「身・口・意の三業」つまり「全生命」で行じていくことです。ゆえに全生命が安楽の境涯になる。南無妙法蓮華経こそ真の安楽の法なのです。

斉藤: 私たちにとって、具体的にどうすることが安楽なのかが大事ですね。「御義口伝」には「安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり」(御書 p798)と仰せです。安楽行の本体は、法華経において上行菩薩が受け継いだ、そして上行菩薩によって末法に弘通されるべき「三大秘法の南無妙法蓮華経」であると。

名誉会長: 文底のお立場から教えてくださっているところだね。
戸田先生は、安楽行品の「御義口伝」を講義されて、こうおっしゃっていた。
「四つの安楽行というのがあるのだよ。なかなかヤカマシイのだよ(中略)それを大聖人様は、型を破っちゃった。『南無妙法蓮華経といえば、みな安楽になるから、それでいいんじゃないか』と」。
「釈迦仏法の安楽行品からいけば、『心ではこう思え。口ではこういえ。体ではこうやれ。願いはこう立てろ』と、いろいろな条件をつけたけれども、大聖人様の安楽行品は楽なんだよ。『困ったら、御本尊様に、南無妙法蓮華経といえ』というのです。そうすれば、安楽になってしまうじゃないか、他はないでしょう」。
「御義口伝」に「諸法実相なれば安楽行に非ざること莫し」(御書 p798)と仰せだが、先生は「諸法実相、世の中のことというものは、みな、変わったことをやることはないのだよ。自分の好きなようにやっていればいいのだよ。諸法実相、犬もそのまま、人間もそのまま、ただ、南無妙法蓮華経と唱えるか唱えないかで、諸法実相であるか、ないかということになる(中略)ありのままで、その姿それ自体であれば、安楽行品だ」と。
ありのままの自分で、「ああ本当に満足だ」「我が人生は大勝利だ」となるのが信心です。それが「安楽」です。人間は、だれでも幸福を求めている。本当の揺るぎない安楽を求めている。ある人は、それを「蔵の財」に求め、ある人は、地位とか健康とかの「身の財」に求める。しかし、本当の幸福は「心の財」にある。その実体は「信心」という大境涯です。
大聖人は「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書 p1143)「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし」(同)と仰せです。南無妙法蓮華経と唱える以外にないのだ、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて」(同)南無妙法蓮華経と唱えていきなさいと。
欲望を満足させて得られる安楽ではない。「自受法楽」 —- こんこんと湧き出づる法楽を自ら受けて楽しむ。そういう安楽の境涯が得られるのです。生命自体の安楽だから強いのです。
経文には「現世安穏」ともある。
大聖人は、三類の強敵の出現こそ「現世安穏」の文の証明であると述べられている(御書 p825)。

須田: 普通の「安穏」観とは正反対ですね。

名誉会長: 難を避け、苦しみを避けて、何か、こそこそと生きていくような弱々しい生命ではないのです。「さあ何でもこい!」と。「さあ、また山を越えるぞ! 山をを越えた分、また人生を大きく楽しめるんだ。多くの人を救えるんだ」と。
究極の「積極的人生」が大聖人の仏法です。