投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 4日(火)17時42分36秒     通報
■ 智慧を使って不惜身命の弘法

遠藤: 安楽行品の概要ですが、主に説かれるのは、四安楽行といって、(1)身、(2)口、(3)意、(4)誓願の四つにわたる修行法です。これを、大聖人は「摂受」と位置づけられていますね。

須田: ええ。像法時代の天台の修行は、安楽行品と普賢菩薩勧発品(第二十八章)に基づくものであり、「摂受」であるとされています。これに対して末法の大聖人の修行は、勧持品(第十三章)・不軽品(第二十章)に基づく「折伏」であるとされています。

遠藤: 末法に四安楽行を実践するのは「時を失う物怪」(「如説修抄」、御書 p503)であるとも仰せです。末法は折伏の時代ですから。

斉藤: その上で、国や民衆の状況に応じて、摂受と折伏のどちらを中心とするかを決めるべきであるとも教えられています。「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(「開目抄」、御書 p235)「末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり」(同)と仰せです。この摂受・折伏を、どうとらえるかということですが —- 。

名誉会長: まず大前提として 末法において南無妙法蓮華経を説くことは、すべて「折伏」です。我が身を惜しまず妙法を語っていく折伏精神が根本であれば、相手の誤りを破折することも、また相手の考えを包容しながら真実を説くことも、両方あってよいのです。

須田: 折伏と摂受という言葉は、仏教だけの用語ではなく、古代インドの社会で広く使われていたそうです。折伏という言葉はパーリ語の「ニガッハ」(とがめる)、サンスクリット語の「アビバーハ」(力において勝っていること・相手を打ち負かすこと)の漢訳です。また摂受は、バーリ語の「パガッパ」の漢訳で、「手をさしのべる」「恵みを与える」という意味です。

遠藤: どちらも人間の振る舞いや態度を指すものですね。

名誉会長: 両方を使いきっていく“智慧”が大事です。法師品(第十章)の所でも語り合ったように、折伏とは「真実を言いきっていくこと」です。誠実に、まじめに、相手の幸せを願って仏法を語っていけば、すべて「折伏」になるのです。

斉藤: 言葉を荒らげて「強引に」語ることが折伏なのではありませんね。

名誉会長: 相手が邪見に毒されて悪口している場合は、破折が表になるのは当然です。「破折」を忘れたら、大聖人の弟子ではない。悪への「破折」がなくなったら、創価学会の魂はありません。
しかし、何も知らない人が相手であれば、当然、説き方は変わってくる。