投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 4日(火)07時30分45秒     通報
名誉会長: いつの時代にも、多くの人にとって侵しがたいタブーがあるものです。
権威ともいってよい。その仮面の陰に隠れるのが「僭聖」なのです。その「権威」は宗教とは限らない。時と場所によって変わるでしょう。それに伴って、僭聖増上慢の現れ方は変わりますが、方程式は同じです。つねに、その社会の“聖なるもの”を利用して法華経の行者を迫害するのです。

遠藤: 現代の「僭聖」について、戸田先生は、こう言われています。
「世間の人々に指導者として信頼される学者および評論家、文学者、および世の指導機関たる一流の日刊新聞の論説などが、その利益および感情等のために官憲等と結んで、下種仏法とその広宣流布への活動に強く攻撃を加える時が現れるとすれば、第三類の強敵出現と断ずることができるであろう」と。

須田: 今が、まさしくその通りですね。

斉藤: たしかに現代においては、“聖なるもの”は、いわゆる宗教とは限りません。
トインビー博士は、十七世紀におけるキリスト教の後退によって西洋に生じた“空白”は、三つの別の信仰の台頭によって埋められたと、先生との対談で語っていています(二十一世紀への対話』)。
第一は、技術、科学面における進歩の必然性への信仰。第二はナショナリズム(国家主義)、第三は共産主義であると。

名誉会長: そう。トインビー博士は、その三つとも行き詰まりを見せている、と言われていた。そして、だからこそ人類の未来の宗教、つまり、新しい宗教が必要だというのが二人の結論でした。

遠藤: この連載の冒頭を思い出します。哲学の空白時代だからこそ、人々は真空に耐えられず、新たな結合の原理を求める。そこで民族主義や様々な宗教が広がっていると。

須田: “聖なるもの”は、社会の結び目なんですね。それなくしては、社会が成り立たない。

名誉会長: トインビー博士の話を要約すれば、近代西欧は、宗教をもつことをやめたのではなく、もつところの宗教を変えたのだということになる。いつの時代でも“聖なるもの”がなくなることはありません。形を変えるだけなのです。

須田: フランスの社会心理学者は語っています。「どの社会も、その社会にとって欠くベからざる神々をそれぞれの時代に自らの手に入れるために必要な、一切のものを持っている。そして、科学が、社会から神々を免除し、宗教に変わる何らかの代替物を創り出すことのできる時代が来ることは、決してあるはずがないように思われる」(セルジュ・モスコヴィッシ著『神々を作る機械』、古田幸男訳、法政大学出版局)。

斉藤: 日本では、戦前は一種の宗教国家でした。戦後にあっては、「経済」が“聖なるもの”だったかもしれません。

名誉会長: しかし、人々を幸福にするための経済が、いつしか経済発展そのものが目的となってしまった。
「人間のための経済」ではなく、「経済のための人間」になってしまった。こうした転倒は、医療、学問、政治、科学、教育、その他、あらゆる場合に起こりうる。事実、起こっている。この転倒を、すべて「人間のため」に引き戻す“原点”が法華経なのです。

遠藤: 本当の「人間のため」「人間の尊厳」が確立していないと、その時代の“聖王なるもの”を信じているうちに、いつしか“聖なる仮面をかぶった僭聖”に支配されてしまいます。その端的な例がファシズムです。気がついた時は手遅れです。

須田: ある日本の哲学者が言っていましたが、軍国主義の一番最後に来たものが一番最初に来ておれば、かなり多くの人が抵抗しただろう。気がついた時には遅かった、と。

名誉会長: 「僭聖」の正体を民衆に暴くことが大事なのです。一部の人が目覚めただけでは、社会は変わりません。だから、行動を起こして僭聖増上慢をあぶり出すしかないのです。
煎じ詰めれば、その社会の人々が、法華経の行者を捨てるか、僭聖増上慢を捨てるかです。 法華経の行者を捨てた社会は、僭聖増上慢に操られたまま、結局は亡国の道をたどっていかざるをえない。そうならないために闘うのです。「三類の強敵との戦い」は即「立正安国の戦い」なのです。