投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 3日(月)18時44分11秒     通報
■ 偽善の陰で私腹を肥やす良観

須田: 大聖人ご在世当時で言えば、極楽寺良寛こそ「僭聖」の典型です。橋の建設などの社会事業やハンセン病患者の救済などの慈善事業を行い「生き仏」「菩薩」のように崇められていたようです。

斉藤: しかし、大聖人は、その仮面の裏に隠された本質を鋭く見抜かれていた。
「今の律僧の振る舞いを見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす(中略)次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国も七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や」(御書 p476)と。
資料によると、良観が諸国で架けた橋は百八十九ヵ所、敷設・修復した道路は七十一ヵ所、掘った井戸は三十三ヵ所に及んだと伝えられています。また極楽寺は、東海道から鎌倉に入る要所にありました。良観は、鎌倉に入る主要な街道の関所で、「通行税」を人ごとに徴収していた。これが「人別の銭」です。

遠藤: それだけではなく、海路の要所であった飯嶋や六浦の港でも関米を取り立てていた。恐らく莫大な利権だったと思われます。

斉藤: 大聖人のご指摘を裏付ける話ですね。良寛らは、慈善事業の一方で、高価な品々を買い求めたり、財宝を蓄えて、金貸しを営んでいた。通行税や土木事業で利益を得てたのでしょう。この通行税の徴収が、どれほど庶民を苦しめていたかを大聖人は厳しく指摘されています。

遠藤: 実際、中世の関所に関する研究によると、当時の関所が庶民の生活を圧迫していたことは事実のようです。そのために、後の十五世紀ですが、土民一揆が起きたことさえありました(相田二郎著『中世の関所』、有峰書店)。

名誉会長: いずれにしても、持戒第一の姿には程遠いね。当時の鎌倉の様子を伝えるものとして、都の宮中の女性が綴った日記の「とはずがたり」(問はず語り)がある。
ここに、著者が諸国遍歴の旅に出て、鎌倉を訪れた印象を綴っている個所がある。大聖人ご入滅後の時ですが、当時、良観は七十三歳で、世間的に最盛期にあったころです。
彼女は、京都から鎌倉に来てみると、鎌倉の狭苦しい生活ぶりを侘びしく感じたという。ところが、極楽寺に来ると、僧侶の振る舞いに都の風情を感じ、懐かしく思ったと記している。

斉藤: 極楽寺の僧侶が、貧しい市井の庶民とはかけ離れた優雅な生活をしていたという事実が想像できますね。

名誉会長: そう。大聖人は、良寛の姿について「身には三衣を皮の如くはなつ事なし」(御書 p349)と仰せです。質素そうな振る舞いを見せている。しかし、これは世間向けのポーズに過ぎない。実際は権力と癒着して、関所での銭貸の徴収権といった利権を握り、民衆を苦しめていた。まさに「利養に貧著する」姿そのものです。僭聖増上慢の実体です。また本来僧侶の「衣」は、民衆のために働く「作業服」です。それが「権威の衣」となっては転倒です。

須田: 医師の白衣、弁護士や政治家のバッジなども、権威の衣となり、権威のバッジとなる転倒が見られますね。

遠藤: 良寛が本性をむきだしにしてきたのは、文永8年の祈雨の勝負で大聖人に敗れてからです。

斉藤: 「良寛が敗れた場合は、大聖人の弟子になる」という約束でしたが、良観は約束を守るどころか、陰に回って大聖人迫害の裏工作を図っていくのです。

遠藤: まず手初めに、浄光明寺の僧・行敏に大聖人と法論させようとしました。これに対して大聖人が、「私的な法論ではなく、正式な公場対決にすべきである」と主張されると、良観らは行敏の名で、大聖人を誹謗する訴状を門注所(裁判所)に提出させます。
大聖人は、これが良観の企みであることを見抜かれて、良観が諸国の守護や地頭らに「日蓮とその弟子等は、阿弥陀仏を火に入れたり、水に流したりしている」(御書 p182 趣意)と讒言し、「頸を切って、所領を追い出せ」(同)と言ったことを指摘されています。「ウソを広めて迫害させる」という手口です。

斉藤: 「頼基陳状」によると、良観らが「大聖人を死罪にせよ」と訴状まで提出し、その動かぬ証拠を大聖人は手に入れておられたようです。

名誉会長: 良観は、持戒第一とうたわれ、殺生禁断を人々に説いていた。いわば虫も殺さぬはずの人間が、大聖人を殺すように訴えていた張本人だった。これが「生き仏」の実態だったのです。

斉藤: 良観の場合、当時、ほとんどの人は「僭聖」の正体を見破れませんでした。今でさえ、良観はどちらかというと尊敬されています。まして鎌倉時代の人たちにとってみれば、“あんなに素晴らしい良観さまのことを悪しざまに罵る日蓮房は許せない”ということになったのでしょう。

遠藤: そうですね。「本当は何が正しいのか」という探求ではなくて、単なるイメージに動かされる。現代のマスコミの多くも、哲学がないから、情報はただの商品となる。売れるためには、人々の興味を引けばなんでもよい、という姿勢です。

斉藤: 結局、民衆が賢くなるしかない。僭聖増上慢が思い通りにできない世の中を、民衆がつくるしかありません。