投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 3日(月)12時21分38秒     通報
須田: “自分自身に酔う”ということですね。一人で鏡を見てうっとりしている程度なら、だれにも迷惑はかかりませんが(笑い)。実際に、世間から最高の存在のように尊敬され、自分もそのように思い込んで振る舞う。

遠藤: 精神分析学者のエーリッヒ・フロムは、権力者の「正気と狂気との境界線にあるナルチシズム」について、こう分析しています。 —- 彼らは「自分の色欲や権力には限界がないと自惚れて」、あらゆるものを手に入れようとする。いわば「神になろう」とする。「神になろうとすればするほど、人間から疎遠になり、そしてこの疎遠感によってかれはますます肝を冷やして、あらゆる人がかれの敵に見え、その結果生じる恐怖に耐えるためにかれは自己の権力、非情、ナルチシズムを増大しなければならない」  (『悪について』、鈴木重吉訳、紀伊國屋書店)と。

斉藤: 自分を神のように思い込む —- これは確かに、自己愛の究極の姿ですね。

須田: そうなると大変です。すべての人が自分の権威を疑い、否定するのではないかという不安につねにさいなまれ、敵愾心と猜疑心の塊のようになる。それがますます“狂気”をひどくする。話しているだけでも疲れてしまいます(笑い)。

名誉会長: “悪の心理”への一つの洞察だね。パスカル(十七世紀フランスの哲学者)が言うように、「天使になろうとする者は獣に似てくる」のです。人間は人間以上になれない。あくまで「人間として」「凡夫として」生ききることが正しいのです。

斉藤: 自分を、人間以上のものに見せかける —- 僣聖増上慢に必要なのは、そのための「民衆との距離」です。人里離れた「阿練若に在って」というのも、その意味からも興味深いですね。だからこそ彼らは、「皆が仏である」という法華経の“民主的”な思想が許せないのではないでしょうか。
仏は“そう簡単にはなれない”存在でなければならない。仏を民衆の手の届かない存在に奉るほど、民衆と仏との間をつなぐ自分の権威が高まる。僣聖増上慢は、いわば仏を“独り占め”しようとしていると言えるのではないでしょうか。

須田: 特別な秘伝がなければ成仏できないとして、大聖人と民衆の間を遠ざけようとした日顕宗も同じですね。

遠藤: まるで、値をつり上げる悪質な“仲買人”ですね。本来、大聖人の仏法は「受持即観心」「直達正観」で、御本尊と自分がダイレクト(直接)に、一体になれる仏法なのですが、それをゆがめて、御本尊と民衆の間に、自分たちが立ちふさがろうとしたのです。

名誉会長: 大切なのは「信心」です。正しい信心を教えてくれる人です。信心も修行もなく、権威だけをふりまわす僧侶は、永遠に大聖人の仏法には必要ないのです。
偽善者は、あらゆる手段を使って、自分を高く立派にみせようとする。あの提婆達多がまさにそうだった。極端な戒律を唱えて、自分を釈尊以上に高潔にみせようとしたのです。

遠藤: 提婆達多は、釈尊に向かって、五つの厳格な戒律を定めるように迫っています。
「比丘は終生、塩を食すべからず」「比丘は終生、酥乳を飲むべからず」「比丘は終生、魚肉を食すべからず」「比丘は終生、乞食の行をすべし。人々の招待による供養を受くべからず」「比丘は春と夏の八ヵ月は外で座し、冬の四ヵ月だけ草庵に住むべし。家屋の供養をうけてはならない」 —- と。
師の教えが生ぬるいと批判し、教団内での自分の地位を高めるための策略でした。
そのことによって、じつは自分を実際よりも高く見せることにねらいがあった。提婆達多は、師である釈尊になり代わって、「新仏」つまり新しい仏陀になろうとしたのです。

名誉会長: 私どもは「ありのまま」でいいのです。凡夫そのままの「無作」でいくのです。久遠の凡夫のまま「つくろわず・もとの儘」(御書 p759)で、自体顕照していけばよい。
本当の仏は飾らない。三十二相八十種好ではない。見栄で飾るのは「僣聖」のすることです。法華経の文底の仏は、凡夫の仏です。本地は仏でも、姿・行動は菩薩です。菩薩仏です。偉ぶらない。そして民衆の中で、民衆と苦楽をともにしていくのです。

須田: 自分を飾る「僣聖」のナルシシズム(自己陶酔)とは、まさに対極にありますね。

遠藤: 先のフロムは、こう言っています。「『自己のナルチシズムを克服することは人間の目的である』。おそらくこの原理が仏教以上に徹底して表現されているものはほかには無いだろう。(中略)仏陀の教義における『悟りをひらいた人』とは、自己のナルチシズムを克服し、完全に悟りの境地に達した人のことなのである」(鈴木重吉訳、前掲書)と。

名誉会長: 鋭い指摘だね。「人間革命」とは、「自己との大闘争」であるといってよい。
具体的には、不惜身命で難と戦っていくことです。難を受け、難と戦ってこそ、自身の「元品の無明」を断ち切れる。それ以外に、真の成仏はありません。