投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 3日(月)09時39分5秒     通報
■ “三類”との戦いに本源的な「人権闘争」

名誉会長: こうして見てくると、「法華経の行者」と、三類の強敵なかんずく「僭聖増上慢」は鮮やかなコントラストを示している。そのポイントは、「人間への尊敬」と「人間への軽蔑」です。その違いが、そのまま「人間のための宗教」と「権威のための宗教」の違いになる。
また、「権力の魔性と戦う宗教」と「権力の魔性と結託する宗教」の違いになる。そして、「迫害を受ける、本物の宗教者」と、「人を迫害する、偽者の宗教者」との違いになる。

「人間への尊敬」の究極は、「万人が仏である」と礼拝する法華経の信念です。
「人間への軽蔑」の究極は、人間をモノとして利用する権威・権力の魔性です。その根底には「元品の無明」がある。
法華経を行じるとは、生命的に言えば、「元品の無明」との対決を意味する。社会的に言えば、権威・権力の魔性との対決を意味する。ゆえに大難は必然なのです。大難を受けないのは、本当の「法華経の行者」ではないのです。

斉藤: 人間に対する軽蔑ということで思い出すのは、哲学者のカントの話です。彼は、ルソーの『エミール』を読んで、それまで無知な民衆を軽蔑していた自分を反省したと言います。

須田: 毎日決まった時刻に散歩していたカントが、『エミール』に熱中して散歩を忘れてしまったというエピソードは有名ですね。

斉藤: ええ、そうです。彼はこう綴っています。「私は、なにも知らない民衆を軽蔑した。ルソーが私を正してくれた。この眩惑的な特権は消滅し、私は人間を尊敬することを学ぶ」(『カント全集』第十六巻、尾渡達雄訳、思想社)。

遠藤: ルソーの『エミール』については、先生もスピーチで紹介し、次の言葉を引かれたことがあります。
「人間はどんな身分にあろうと同じ人間なのだ。そうだとしたら、いちばん人数の多い身分こそいちばん尊敬にあたいするのだ」(今野一雄訳、岩波書店)。「民衆こそ社会の主人である」と訴えられました。

名誉会長: 「私は人間を尊敬することを学んだ」 —- 素晴らしい言葉だね。人をどれだけ尊敬できるかで人間の真価は決まる。人を尊敬することが「人権」の出発点です。誰ひとりとして軽んじない。ここに仏法のヒューマニズムがあります。

斉藤: 「人権」の確立こそ一番の課題です。それに関して、人権の闘志ブラジルのアタイデ博士が先生に言われた言葉が忘れられません。「すべての人間のなかに“聖なるもの”を見る視点がなければ、“人間の尊厳”といっても思想の根っこがないことになる」と。その意味で、法華経こそ、もっとも根本的な人権の思想だと確信します。

遠藤: 三類の強敵との戦いは、「人間への尊敬」を貫く人権闘争である、ということですね。

名誉会長: 問題は、僭聖増上慢は、つねに“人権の味方”であり“民衆の味方”という仮面をかぶっていることです。だから、その本性を見破ることは決して容易ではない。

遠藤: 妙楽大師は「この三類の強敵の中には初めの俗衆増上慢は忍ぶことができる。次の道門増上慢は、俗衆増上慢よりも強い。第三の僭聖増上慢こそ、もっとも恐ろしい。なぜなら、その正体が見破り難いからである」と述べています。

須田: 今の社会も、いかにも人権や平和のために戦っているようなポーズの人間が多い。それだけに、言葉や、つくられた虚像にまどわされず、本質を見抜く眼が大切になってきます。

斉藤: 大聖人は「開目抄」に「無眼の者・一眼の者・邪見の者は末法の始の三類を見るべからず」(御書 p229)と仰せです。三類の強敵を見破るのは、「一分の仏眼」(同)をもっている者、つまり法華経の行者だけであると。

名誉会長: 悪を見抜くのは、行動する人です。戦う人です。かつて、ある青年が、牧口先生に、何が善で何が悪かをどうすれば判断できるようになるかと質問したことがある。
牧口先生は「世界最高の宗教を命がけで修行する、その努力と勇気があれば、わかるようになる」と答えられたといいます。

須田: その僭聖増上慢の正体ですが、「自ら真の道を行ずと謂いて」ですから、自分こそ一番偉いと自惚れ、他人を軽蔑するわけですね。その根底には、どのような心理が働いているのでしょうか。

斉藤: 自惚れが強い人というのは、一般に、「自己愛」が極端に強いように思えます。ナルシシズム(自己陶酔)というか —- 。