投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 2日(日)18時38分36秒     通報
■ 裏から権力を操る

遠藤: 次の第九行からの偈では、いよいよ僭聖増上慢と権力との結びつきを明かします。「いつも大勢の人々の中にあって、私たち(法華経の行者)を謗ろうとするために、国王、大臣、婆羅門、居士やその他の比丘たちに向かって、私たちを誹謗し、私たちの悪を説いて、『これらの人は邪見の人であり、外道の論議を説いている』と言う(第九・十行)」と。

名誉会長: 法華経の行者と直接、対決するのではない。つねに裏であやつろうとする。それが僭聖増上慢の「くせ」です。仮面をかぶった生き方が身についてしまっている。本当は臆病なのです。そこで世間に向かって、また権力者や社会の有力者に対して、法華経の行者の誹謗・中傷を繰り返すのです。

須田: 俗衆増上慢を“手先”とするわけですね。いかに悪辣で卑劣であるかは、この一事を見ても明らかです。

斉藤: 西洋の異端審問も、同様に、聖職者は直接、手を下さなかったようです。密告と拷問によって無理やりに「死刑」と定め、しかも自分は直接に死刑と宣告したり、処刑したりしない。ただ、その犠牲者を世俗権力の手に引き渡すわけです。

遠藤: 自分は手を汚さない。偽善者は、どこまでいっても偽善者ですね。

名誉会長: しかも権力に引き渡す時、「私たちは、汝の命が助かるよう、慈愛をもって願うが、やむなく汝を捨てて世俗の法廷に引き渡す」という文書をつけたらしい。死刑を前提にして引き渡しながら、これほどの偽善はない。
ともあれ悪は結託する。連合軍になる。分け前を得るために団結の姿を示すのです。一方、善は利得と無縁なために、孤立してしまう。この悲劇を転換しなければならない。善が団結しなければなりません。

須田: 次に、三類の強敵が法華経の行者をバカにして「あなたたちは皆、仏であると悪口を言う」とあります(第十行)。現代的に言えば、“あなたたちは偉いよ。ヘー、仏になれるんだってね”という皮肉交じりの批判でしょうか。“たいしたものだよ。あんなやつが仏だっていうんだから”と聞こえます。

名誉会長: 不軽菩薩の行動のように、「汝等は皆是れ仏なり」とは、本来、最高の「人間への尊敬」です。それすらも三類の強敵は、人を嘲笑する言葉として使うというのです。人を見下すことしか知らない人間の卑しさが如実に現れている。

遠藤: 次の十二・十三行目の偈では、「濁った時代の悪世には、多くの恐怖があります。悪鬼がその体が入り、私たちを罵倒し、非難します」と、悪鬼入其身が説かれています。
そして、「忍辱の鎧」を着て法華経を説き(第十三行)、そのための精神として「我身命を愛せず  但無上道を惜しむ」が述べられます(第十四行)。

名誉会長: 大聖人は、「無上道とは南無妙法蓮華経是なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を惜む事は命根よりも惜き事なり」(御書 p749)と仰せです。
南無妙法蓮華経を自分の命以上に大切にする —- ここに信心の極意がある。妙法の広宣流布に一切を捧げていく信心です。具体的には学会とともに前進し、学会を守り抜き、苦楽を共にしていくことです。学会を離れて、妙法の広宣流布はない。戸田先生が「学会の組織は戸田の命より大事だ」とおっしゃった意味もそこにある。

斉藤: このあと、濁世の悪僧たちは、仏が種々の法を方便として説いたということを知らず、法華経の行者の悪口を言い、眉をしかめ、しばしば追放し(第十六行)、塔や寺から遠ざける(第十七行)と続きます。

名誉会長: しばしば追放 —- 「数数見擯出」です。大聖人は、「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや」(御書 p202)と断言されている。
大聖人以外にこの経文を身読された方はおられない。「二十行の偈」は、大聖人こそ真の「法華経の行者」であられることを証明する経文なのです。

斉藤: 近代において創価学会ほど三類の強敵に迫害されてきた教団はありません。学会が真に法華経を行じている証明です。