2015年8月2日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 8月 2日(日)13時02分29秒 通報 ■ 法華経の行者を「つくり話」で迫害 斉藤: 次の第六行の偈では「この人「僭聖増上慢」は悪心をもって、いつも世俗のことを気にかけ、閑静な場所に住んで修行しているとは名ばかりで、私たちの過失を好んで作り出そうとします」と。自分に敵対する法華経の行者が出現すると、ありもしない過失を捏造し、言い立てるのです。 名誉会長: 偽善者にとって、恐ろしいのは自分たちの実像が暴かれることです。ゆえに、真実を叫ぶ法華経の行者が“脅威”となる。 遠藤: そこで「ウソ」で法華経の行者を、なきものにしようとする。 須田: ウソはもともと、お手のものですから —- 。 名誉会長: そのへんのやり方も、法華経につぶさに説かれているね。 斉藤: はい。僭聖増上慢は、法華経の行者に対して、次のように批判します。 「これらの比丘たち(法華経の行者)は利得を貪るために、外道の論議を説いて(第七行)、自らこの経典を作り、世間の人々を迷わせ、名声を求めるために、いろいろ考えてこ経典を説くのである(第八行)」と。 遠藤: 宗門が、何かというと“外道”だとか難癖をつけてきたことを、思い出しますね(笑い)。 斉藤: まさに「讒言」と「つくり話」です。 須田: しかも、その内容たるや、自分のことを言っているにすぎない。「利養や名声を貪る」「外道の論議を説く」。 名誉会長: そう。僭聖増上慢は自分の「醜い実像」を、そのまま法華経の行者の姿だと、“すりかえ て”悪口してくるのです。自分の“影”に向かって悪口を言っているようなものだ。 遠藤: 妙楽大師が彼らを僭聖増上慢と名づけたのは、見事に本質をついていると思います。「僭聖」には、「聖者のふりをする」という意味があります。「聖者」と思われているだけであって、本物ではないわけです。むしろ「実像」は逆です。ですから、自分は所詮本物ではない、「仮面をかぶって生きている」ということを、心のどこかでは知っているわけです。しかし、増上慢の心が強いため、自分の醜い実像を正面から受け入れ、認めることはどうしてもできない。実像は、いつもは意識されないで抑圧されている。そんななか、真の仏法者である法華経の行者が現れると、太陽にまぶしく照らされたように、いやでも自分の卑小な姿を見せつけられてしまう。それが「増上慢」には耐えられない。そこで、法華経の行者さえいなければいいと考えてしまう。 斉藤: 嫉妬ですね。 須田: 自分の実像がゆがんでいるのに、それを映す明鏡に対して怒っているようなものです(笑い)。「醜い姿じゃないか」と鏡を指さしているわけですが、じつはそれは自分の姿が映っている。 Tweet